【旧富士見村の古墳】
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、
旧富士見村で29基の古墳が確認され、「上毛古墳綜覧〈1938〉」に富士見村1号〜29号墳まで記載されている。
1954年(昭和29年)の富士見村誌によると、上記の調査から戦争を経て、多くの古墳が平夷されたが、1951年(昭和26年)からの調査では、多くの調査漏れが指摘され、少なくとも富士見村に近年まで90基にも上る古墳が存在したとしている。
「群馬県古墳総覧〈2017〉」には、富士見村58号墳まで数えられ、その他、発掘調査などで新たに判明した古墳を含め、現在の前橋市富士見町地区に74基の古墳が記載されている。
現存する古墳はわずかで、ほぼ円墳の富士見村において唯一の前方後円墳である九十九山古墳や、新たに確認された富士見漏1号墳、横室古墳公園に保存されている陣場・庄司原古墳群(円墳1基、石室移築2基)など数基のみである。
【陣場・庄司原古墳群】
1989年(平成元年)県営ほ場整備事業に伴い、大字横室の陣場・庄司原遺跡群より検出、発掘調査された7基の古墳、5基の方形周溝墓の計12基を「陣場・庄司原古墳群」と称する。
古墳は全て円墳で、墳丘規模が直径20m前後が5基、10m前後が2基で、全てが、両袖型の横穴式石室である。
ほとんどの古墳で、墓前祭祀を行ったと思われる前庭部が見られ、また、墳丘の周りには葺石が積まれ、周堀が掘られていた。
当初は記録保存される予定だったが、残存状態の良い上庄司原1号古墳が現地保存されることになり、上庄司原2号古墳と上庄司原4号古墳も現地保存を目指すが叶わず、石室
のみが移築保存されることになった。
「横室古墳公園」として上記3基が整備保存され、
他の古墳は全て削平された。
【上庄司原4号古墳】
陣場・庄司原遺跡群は字名、立地により7区画に分類されるが、この上庄司原2号古墳は「上庄司原東遺跡」に
所在し、上庄司原1号古墳の西50m程のところに隣接していた。
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、富士見村9号古墳と採番されている
。
調査時には、桑畑であったが、それ以前は山林であり、周堀の北側は抜根跡が激しく、墳丘は激しく削られていたが、石室周辺は小山状になって、崩落した天井石が露出していたということである。
玄室は右壁に比べ、左壁の残存状態が悪いが、構築後すぐに左壁から崩落したと思われる。
しかし、それが幸いして、遺物のほとんどが盗掘されずに残存しており、中小の古墳では遺物が盗掘を受けずに残存していることが珍しいので、埋葬当時の副葬品を内容が分かる貴重な古墳である。
特に、子持ちはそう(腹部に小孔をあけた壺形の須恵器)は東日本では出土例が少なく、貴重である。
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