【白石古墳群・稲荷山支群】
鮎川の西岸に、南北約2キロにわたって展開される群馬県屈指の大古墳群・白石古墳群を構成する4つの支群
の一つ、稲荷山支群に分類され、稲荷山古墳群と表記される場合もある。
中心となる白石稲荷山古墳(国指定史跡)七輿山古墳(国指定史跡)は、白石古墳群全体のの中でも最大規模で、七輿山支群の七輿山古墳(国指定史跡)と共に群を抜いており、東日本でも最大級である。
現在、稲荷山支群の皇子塚古墳、平井地区1号墳、白石稲荷山古墳を含む地区を中心として、七輿山支群の南部、七輿山古墳を含む地域一帯が、毛野国白石丘陵公園として整備を進められている。

▲「毛野国白石丘陵公園」古墳分布図
藤岡市の計画図を利用して独自に作成
【稲荷山古墳】 1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、旧多野郡平井村には643基、字白石に絞っても178基もの古墳が
確認された古墳密集地域であり、この稲荷山は平井村576号古墳と採番されている。
白石古墳群の盟主的存在で、6基確認されている前方後円墳の中でも、最初に造られたものと推定されている。
2019年、藤岡市、早稲田大学、群馬県立歴史博物館の合同で、最新のデジタル3次元(3D)測量と地中レーダー探査(GPR)に非破壊調査が行われた結果、墳丘は三段築造
で、それまで想定されていたよりも短い墳丘長(155m)と判明した。
5世紀初頭のものとしては東日本で5番目の規模である。
【二基の竪穴式礫槨 + 粘土槨】
1933年(昭和8年)の調査により、後円部墳頂で東西2基の竪穴式礫槨が検出されている。
東北から西南に向けて、主軸より10度前後東に傾いて、2基が平行している。
2基の間隔があいているため、中央にもう一基あるのではないかと推測されていたが、調査の結果、否定された。
東槨は調査の半年前、「稲荷山開墾組合」の発掘によって主要な部分が破壊されてしまっていたため、再度の発掘でも不明な点が多かったという。
2基は長大なもので、礫槨と竪穴式石室の性質を併せ持つ特殊な造りとなっており、礫槨から竪穴式石室へと移行していく過渡期のものなのかもしれない。
主体部からは鏡や直刀、石枕(いしまくら)、鎌、下駄などの石製模造品など、多くの遺物が出土した。
また、主体部の上に設置してあった、豪族の館を思わせる家形埴輪(寄棟造倉庫よせむねづくりそうこ)などは有名である。
(右の解説版の写真)
前述した2019年の最新の非破壊調査では前方部にも粘土槨と推定される埋葬施設が確認され、確認された埋葬施設は3基となった。
今後、発掘調査が行われることを期待する。
【2基の陪塚を伴う】
北に周堀を接するように十二天塚、十二天塚北古墳の2基の陪塚が存在している。
2基はかつて、一つの前方後円墳としてとらえられていたが、調査により、2基の方墳(2019年の最新の調査では円墳であると判明)とされ、白石稲荷山古墳の陪塚として3基一括して、国の史跡に指定された。
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