【荒砥富士山古墳】
かつての勢多郡荒砥村に所在する7世紀末と推定される円墳。
1kmほど東には大室古墳群が所在するなど、荒砥村は古墳密集地域である。
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、
荒砥村には365基もの古墳が確認されており、この古墳は、荒砥村150号古墳と採番されている。
15万年前頃、「赤城山」中央部の大規模崩壊により生じた「富士山」「と呼ばれる流れ山上に存在しているため、荒砥富士山古墳という名称で呼ばれるようになったものと思われる。
また、群馬県営荒砥北部地区圃場整備事業に伴い、1989年〜1991年にかけて、群馬県教育委員会により発掘調査されているが、その際に「富士山I遺跡1号古墳」という名称も付与されたようである。
「マッピングぐんま」には荒砥村150号墳と富士山I遺跡1号古墳の名称はあるものの、荒砥富士山古墳の名称は掲載されていない。
かつてはすぐ東側に荒砥村151号墳が所在していたが、現在は削平されてしまったようで、現状は、単独で存在しているように見える。
北西には阿久山古墳群などが所在していたが、同一のグループに入るかどうかは不明。
【類例のない八角形の玄室】
玄室と羨道から成り、前庭を持つ両袖型の横穴式石室である。
状態は良く、玄室、羨道のすべての天井石が残存しており、また、台形状の前庭もよく残されていた。
羨門(羨道と前庭の境)、玄門(玄室と羨道の境)、それぞれに扉石がはめ込まれており、群馬県内では扉石が確認された初の古墳である。
実測図が入手できなかったので、詳しくはわからないが、玄室は平面形が長方形の四隅を切った八角形ということである。
墳丘が八角形なのは、群馬県でも桐生市の武井廃寺塔跡や吉岡町の三津屋古墳などがあるが、玄室の平面プランが八角形というのは、他ではちょっと聞いたことがない。
火葬も入ってきていた時期なので、八角形に宗教的な意味があったのか、単に製作者がおしゃれだと思って工夫してみたのか。
墳丘にしても、薄葬礼により、古墳規模の縮小化が進んだ時期の円墳であるにもかかわらず、4段にも造られ
たのは、元々、流山を土台にして造られたものとしても、規模が大きいように思え、相当な力を有する首長の墓であったと推測できる。
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