【総社古墳群中の一基】
総社古墳群は榛名山から東南方向に広がる裾野の末端に位置し、現利根川の西岸に南北4kmに分布し、その立地から、大きく南北二群に分けられ
るが、この愛宕山古墳は北支群に入る。
5世紀から7世紀にかけて、連綿と築かれ、その規模や卓越した築造技術、優美な装飾品などから、東国を代表する古墳群の一つ。
上毛古墳綜覧(昭和10年の調査)では円墳とされていたが、1996年の『総社愛宕山遺跡』の調査により周堀の形から、方墳であることが確認された。
上野国の首長墓は前方後円墳(埴輪あり)から方墳(埴輪なし)に変わっていくが、その移行期の重要な古墳とされている。
この愛宕山古墳に続き、宝塔山古墳、蛇穴山古墳と3基の大型方墳が造られる。
総社二子山古墳(前方後円墳)の時代には県内各地に有力な豪族の墳墓が造られていたが、愛宕山古墳の時代になると匹敵にする古墳が見当たらなくなり、総社古墳群を造った豪族が中央政権と深いつながりを持ちながら、上野国を支配したことがうかがえる。
【被葬者説】
古来より、総社古墳群は、第10代崇神天皇皇子で東国を治めた豊城入彦命を祖とする上毛野氏の一族の墳墓と言う説がある。
この愛宕山古墳は豊城入彦命の子である八綱田王(やつなたおう)の墳墓という説がある。
1810年「上毛上野古墓記」では、愛宕山古墳を豊城入彦命、宝塔山古墳を彦狭島王、蛇穴山古墳を御諸別命とし、総社二子山古墳を豊城入彦命の副葬品を納めたものとしていた。
愛宕山古墳を豊城入彦命の墳墓をとし、総社二子山古墳を
その副葬品を納めたものとしたのは、当時、総社二子山古墳の前方部の石室が発見されておらず、後円部の石室より、愛宕山古墳の石室の方が
優秀と思われたためらしい。(家型石棺も安置されていたためか)
その後、文政2年(1819年)に総社二子山古墳の前方部石室が発見されたため、以降、二子山古墳が豊城入彦命と考えられるようになった。
そのため、愛宕山古墳は豊城入彦命から4代の中で、登場していなかった子の八綱田と言う説が浮上したようだ。
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