【総社古墳群中の一基】
総社古墳群は榛名山から東南方向に広がる裾野の末端に位置し、現利根川の西岸に南北4kmに分布する。
5世紀から7世紀にかけて、連綿と築かれ、その規模や卓越した築造技術、優美な装飾品などから、東国を代表する古墳群の一つとされている。
その立地から、大きく南北二群に分けられるが、この総社二子山古墳は北支群に入
り、古墳群中、最大の規模である。
【二つの横穴式石室】
前方部と後円部にそれぞれ横穴式石室を持つ。
後円部の石室は古く(慶長、寛永年間?)から開口していたという。
前方部の石室は1819年、元景寺の檀家の墓穴掘りの際に発掘された。(古墳は元景寺檀家の墓地と畑になっていた)
二つの石室は趣を異にしており、前方部の石室の方が先行すると考えられてきたが、逆という説も出てきて、『東国の雄
総社古墳群』では、後円部の方が先とされている。
前方部石室からは様々な副葬品が出土し、様々な装飾が施された非常に優美な頭椎太刀(かぶつちのたち)が有名であるが、現在、所在不明であり、絵図のみが残されている。
後円部石室の出土品については特に伝えられていないが、「豊城入彦命の副葬品を納めた」という説もあったことから、様々な副葬品が出土したのではないかとも推測できる。
【被葬者説】
古来より、総社古墳群は、第10代崇神天皇皇子で東国を治めた豊城入彦命を祖とする上毛野氏の一族の墳墓と言う説がある。
1810年「上毛上野古墓記」では、愛宕山古墳を豊城入彦命、宝塔山古墳を彦狭島王、蛇穴山古墳を御諸別
王とし、
この総社二子山古墳を豊城入彦命の副葬品を納めたものとしていた。
愛宕山古墳を豊城入彦命の墳墓をとし、総社二子山古墳を
その副葬品を納めたものとしたのは、当時、総社二子山古墳の前方部の石室が発見されておらず、後円部の石室より、愛宕山古墳の石室の方が
優秀と思われたためらしい。(家型石棺も安置されていたためか)
その後、文政2年(1819年)に総社二子山古墳の前方部石室が発見されたため、以降、二子山古墳が豊城入彦命と考えられるようになった。
1875年(明治8年)、豊城入彦命の陵墓として治定され、墓掌・墓丁(墓を守る役職)が置かれたが、すぐに解除となっている。
1878年(明治11年)、大室の前二子古墳の石室が開けられ、豊城入彦命の陵墓として申請されたが、治定されなかった。
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