【総社古墳群中の一基】
総社古墳群は榛名山から東南方向に広がる裾野の末端に位置し、現利根川の西岸に南北4kmに分布する。
5世紀から7世紀にかけて、連綿と築かれ、その規模や卓越した築造技術、優美な装飾品などから、東国を代表する古墳群の一つとされている。
その立地から、大きく南北二群に分けられるが、この宝塔山古墳は北支群に入
り、代表的な3方墳のうちの一基である。
南東に近接する蛇穴山古墳と、南西の白鳳期に建立された山王廃寺の石造品に共通の石材加工技術であり、2古墳と寺院の造営が並行して進められたと考えられている。
【截石切組積の複室構造の石室】
群馬県で方墳は珍しく、さらに横穴式石室を持つのも珍しいが、総社古墳群では、3基並んでいる。
石室は玄室、前室、羨道の3室から成る12m超の長い石室で、さらに、巨大な前庭も持つ。
截石切組積(古墳時代後期の横穴式の石室における、
側壁の石組技法)であり、最高レベルの石室加工技術が用いられている。
また、石室内には仏教文化の影響を受けた飾り加工(格狭間)が見事な横口式の家型石棺も安置されている。
古くに開口していたようで、天明6年(1786年)の「山吹日記」、文化7年(1810年)の「上野古墓記」などにも石室内の様子の記載がある。
副葬品はなかったが、石材の下より、中世以前の古銭類が発掘されており、開口は中世ではないかと推定されている。
【被葬者説・彦狭島王(ひこさしまおう)】
古来より、総社古墳群は、第10代崇神天皇皇子で東国を治めた豊城入彦命を祖とする上毛野氏の一族の墳墓と言う説がある。
1810年「上毛上野古墓記」では、愛宕山古墳を豊城入彦命、宝塔山古墳を彦狭島王、蛇穴山古墳を御諸別
王としていた。
根拠は極めて薄い。
また、上野国の代官となった群馬八郎が、妬んだ七人の兄に殺され、石の唐櫃に入れて、「蛇塚の岩屋」という岩の中深く投げ込んだ」という伝説
があるが、その「蛇塚の岩屋」というのが、隣接する蛇穴山古墳だという説がある。
しかし、「石の唐櫃」というのが石棺のことだとすると、蛇穴山古墳には石棺がないので、この宝塔山古墳と混同している可能性もあるのではないか?
【墳頂には秋元氏歴代墓地】
総社城主であった秋元氏の菩提寺が光巌寺であり、宝塔山古墳の墳頂には「秋元氏歴代墓地」があり、前橋市の指定史跡となっている。
秋元氏(※)
関が原の功績により総社に封じられ、天狗岩用水を開削するなど土地を豊かにする数々の事業を行い、総社の基礎を築いた。
甲州に転封するまでわずか33年ながら、上記の直訴の際も総社領民を援助するなどして、総社を愛し、領民にも慕われていた。
秋元氏の菩提寺である光巌寺の境内に残る「力田遺愛碑(りょくでんいあいひ)」は秋元氏が総社から転封して、140年以上たった安永5年(1776年)、秋元氏の功績を称えるために領民が
「一握りの米」を出し合って建立したものであるという。 |
秋元氏と領民の深いつながり(上記、直訴の件など)については、大小路山古墳(総社町7号)の熊谷稲荷神社の項でも触れている。
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