【総社古墳群中の一基】
総社古墳群は榛名山から東南方向に広がる裾野の末端に位置し、現利根川の西岸に南北4kmに分布する。
5世紀から7世紀にかけて、連綿と築かれ、その規模や卓越した築造技術、優美な装飾品などから、東国を代表する古墳群の一つとされている。
その立地から、大きく南北二群に分けられるが、この蛇穴山古墳は北支群に入
り、代表的な3方墳のうちの一基である。
宝塔山古墳とその南西に近接する白鳳期に建立された山王廃寺の石造品に共通の石材加工技術であり、2古墳と寺院の造営が並行して進められたと考えられている。
かつて墳丘上には奉安殿があり、紅葉山古墳に移築された
。
さらに以前に、墳丘上には観世音堂があり、石室は入口を作り変えて弁財天を祀っていたという(『山吹日記』)。
石室の奥壁には寛文11年(1671年)に、江ノ島の弁財天を移し祀ったという旨の銘文が蛇体の梵字と共に記されていたという。
【特殊構造の横穴式石室】
群馬県で方墳は珍しく、さらに横穴式石室を持つのも珍しいが、総社古墳群では、3基並んでいる。
さらに、この蛇穴山にいたっては、通常の横穴式石室(玄室+(前室+)羨道など)ではなく、羨道がなしで、玄室からいきなり前庭が開く他に類を見ないものである。
(右の実測図参照)
正方形の石室は奥壁、側壁、天井石全て巨石の一枚岩を加工して組み合せた截石切組積(古墳時代後期の横穴式の石室における、
側壁の石組技法)であり、最高レベルの石室加工技術が用いられている。
特に玄門部は精巧に造られており、冠石の外側を格狭間(こうざま)状に刳り貫くなど、石材加工技術に仏教文化の影響が見られる
。
【被葬者説(1)・御諸別(みもろわけ)王】
古来より、総社古墳群は、第10代崇神天皇皇子で東国を治めた豊城入彦命を祖とする上毛野氏の一族の墳墓と言う説がある。
1810年「上毛上野古墓記」では、愛宕山古墳を豊城入彦命、宝塔山古墳を彦狭島王、蛇穴山古墳を御諸別王としていた。
根拠は極めて薄い。
【被葬者説(2)・田道命(たみちのみこと)】
豊城入彦命の子孫で御諸別命の孫にあたる田道命は、天皇の命令で朝鮮の新羅を攻め、大きな功績をあげて凱旋したという人物。
東国の蝦夷を打つことを命じられて下ったが、上総国伊寺の水門で討死したという。
国府の近く、王宮のあった総社に塚を築いて葬られ、それが蛇穴山古墳であるという。
蛇穴の名はその後、田道が死んだため勢いを取り戻した蝦夷が田道の墓をあばこうとすると、中から大蛇が表れて毒気を吹きかけて蝦夷を殺してしまったことからついたという
。
その後、この大蛇は、ときどき姿を現し小動物を食べたり、田畑の作物に被害を与えていたので、村人たちは、村の娘を一人、人身御供をたて、大蛇に捧げたという。
その娘の霊をなぐさめようと、村人たちがを造ったという薬師像が、元総社町の北部、阿弥陀寺にある。
【被葬者説(3)・群馬八郎】
「光仁天皇の時代、上野国の代官となった群馬八郎が、妬んだ七人の兄に殺され、石の唐櫃に入れて、その中島にある「蛇塚の岩屋」という岩の中深く投げ込んだ」という伝説(『神道集(1354〜1358)』)
がある。
その「蛇塚の岩屋」というのが、この蛇穴山古墳だという説がある。
だとすれば、当時から石室が開口していたと思われる。
「蛇食池の中島」という表現から、墳丘の周囲に水をたたえる周濠が存在したと想像できる。
江戸時代初期の紀行文『伊香保記』には光厳寺の近くに「八郎権現の岩屋」があることが記されている。
「石の唐櫃」というのは、石棺のことと思われるが、蛇穴山古墳には石棺はなく、「棺を安置するための棺台
」のようなものがある。
かつては石棺も存在したのか、それとも、隣接する宝塔山古墳と混同している可能性もあるのでないか?
上記の田道命説と同様、こちらにも、大蛇(群馬八郎の化身)が現れて、娘を生贄に捧げていたという話が伝わる。
本当に大蛇がいたかどうかはともかく、日照り、水害などの自然災害や、獣など人外のものによる災厄が村を襲い、若い娘を生贄に捧げるというようなことは実際にあったのかもしれない。
『大蛇』を、同じように細長い形状の『龍』と考えれば、日照り、不作などによる飢饉で、雨乞いのために、『龍神』に生贄を捧げるとか、いかにもありそうな感じではある。
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