【総社古墳群中の一基】
総社古墳群は榛名山から東南方向に広がる裾野の末端に位置し、現利根川の西岸に南北4kmに分布する。
5世紀から7世紀にかけて、連綿と築かれ、その規模や卓越した築造技術、優美な装飾品などから、東国を代表する古墳群の一つとされている。
その立地から、大きく南北二群に分けられ るが、この大小路山古墳は北支群に入
り、現存する3基の円墳中の一基。
古墳群中で最初に造られた前方後円墳の遠見山古墳から200mほど北西に所在する。
遠見山古墳は慶長9年(1604年)に築造された総社城の二の丸の中心部にあったと言われ、この大小路山古墳も総社城の範囲内に入るようだ。
【熊谷稲荷神社】
社殿は元禄9年(1696年)、宝塔山古墳に隣接する光巌寺
の東北の紅葉山古墳上の日枝神社を移築したものといわれる。
神社の由緒の概略は下記の通りである。
寛永10年(1633年)、総社城主の秋元氏(※)が他所へ転封し、新たな領主に任命された代官
の支配に領民は困窮した。
領内28人の代表は、熊谷稲荷に参集し、加護を祈り、江戸表へ直訴に及んだ。
宝永6年(1709年)8月、秋元氏の援護により勝訴となった。
明暦3年(1657年)より宝永6年までの53年間の農民の難儀を救ったのはひとえに熊谷稲荷の加護によるとして、御分神を勧請し、熊谷稲荷と称したと伝えられている。
秋元氏(※)
関が原の功績により総社に封じられ、天狗岩用水を開削するなど土地を豊かにする数々の事業を行い、総社の基礎を築いた。
甲州に転封するまでわずか33年ながら、上記の直訴の際も総社領民を援助するなどして、総社を愛し、領民にも慕われていた。
秋元氏の菩提寺である光巌寺の境内に残る「力田遺愛碑(りょくでんいあいひ)」は秋元氏が総社から転封して、140年以上たった安永5年(1776年)、秋元氏の功績を称えるために領民が
「一握りの米」を出し合って建立したものであるという。 |
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