【総社古墳群中の一基】
総社古墳群は榛名山から東南方向に広がる裾野の末端に位置し、現利根川の西岸に南北4kmに分布する。
5世紀から7世紀にかけて、連綿と築かれ、その規模や卓越した築造技術、優美な装飾品などから、東国を代表する古墳群の一つとされている。
その立地から、大きく南北二群に分けられるが、この王山古墳は南支群
の最南端にある。
現存する古墳群中で、最も古くに造られた北支群の遠見山古墳に続いて造られた。
【積石塚に前方部を付設した珍しい形】
「積石塚」と言われ、石を積み上げて墳丘を造る全国的にも珍しいものである。
前方後円墳だが、造り方も極めて珍しく、調査では、まず円墳が造られ、その後に前方部が付設されたということが判明している。
6世紀初めに、ニ段の墳丘の形を盛土で作った外側に、砂や礫が混じった河原石を詰め、さらにその外側に大振りな自然石の葺石で固めて、円墳が造られた。
その後、6世紀半ば以降に、円墳に前方部を盛り土で付設して前方後円形に完成させたようである。
【初期の横穴式かつ県内最長の石室】
群馬県で横穴式石室を採用した初期の横穴式古墳で、河原石の小口積みで造られた非常に狭く、細長い石室が特徴的。
先に造られた後円部の東南東に開口する。
全長16mを超え、群馬県内最長の規模であると言われているが、2018年、藤岡市の七輿山古墳の地中レーダー探査で、20m級の横穴式石室の存在が確認されており、発掘調査されれば記録が塗り変わる可能性が高い。
【前方部の意味は?】
後円部が造られてから、半世紀はたってから前方部が付設されている。
後円部にのみ、埋葬施設がある場合、前方部は祭祀の場であったと考えるべきかもしれないが、後円部が前方部が造られるまでの時間が長すぎるので、単に祭祀のためのスペースを後付けしたとは考えにくい。
後円部の被葬者の親族などを葬るために、新たに前方部を増設し、石室を築いたのではないかと想像できる。
現状、前方部が短い帆立貝式のように見えるが、実際は削られており、元々は遥かに長かったようである。
とすれば、削られて消失した部分にも、もう一つの石室が存在したとしてもおかしくない。
この後に造られる総社二子山古墳も、二つの横穴式石室を持ち、後円部が先に造られ、後に前方部にも石室が造られたとされている。
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