【旧北橘村の古墳】
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、
北橘村(現在の渋川市北橘町)には133基の古墳が確認されている。
その後に確認された古墳も含めて、「群馬県古墳総覧〈2017〉」には現在、渋川市北橘町に161基の記載があるが、現存するのはわずか数基のようである。
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▲南から
私有の畑地内にあり、
大事に保存されている様子
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【道訓塚古墳】
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、北橘村39号古墳と採番されて
いる。
固有名称は「道訓塚」と記載されている。
発掘調査は行われておらず、詳細は不明。
由来徴証としては「縣社木曽神社ノ湧玉ノ源ナリトイフ。耳ヲツケルト泉ノ流レル聞ユトイフ」
ここから、2kmほど南西の縣社木曽三社神社の湧玉の源がここで、墳丘に耳をつけると水音が聞こえるということだろうか。
この赤城山麓は「滝沢の湧玉」など「○○の湧玉」と呼ばれる湧水地が多く、この古墳の地下にも水脈が通っているのか。
「道訓」とは医者の名前という話もあり、江戸時代に同名の医者が存在したようだが、関係は不明である。
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【道光塚古墳】
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、北橘村38号古墳と採番されている。
固有名称は「道光塚」と記載されている。
道訓塚より350mほど北(三反田572)に所在したが、現在は削平されたようである。
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【十二塚古墳】
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、北橘村40号古墳と採番されている。
固有名称は「十二塚」と記載されている。
道訓塚より250mほど南(道訓前481-1)に所在したが、現在は削平されたようである。
台帳には、「サイズ不明、石室に使われた大石3コが積み重ねてある」とあるので、県下一斉調査の時点では既に墳丘が削られ、石室材のみが残る状態だったのかもしれない。
古墳台帳や地番からすると、マッピングぐんまの位置よりは100mほど南のようであるが、現在、推定地に付近には何も見当たらない。
(かつて候補地として掲載していた写真の場所は違う可能性が高いので、削除した。)
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