【仏教の教えによる結束表明】
この碑は、聖武天皇の神亀3年(西暦726年)に上野国群馬郡下賛郷(高崎市下佐野町)の屯倉(天皇の料地をあずかる役人)の子孫が祖先と現在の父母の菩提のために宗団を作り、仏に供養した旨を刻んだものである。
国分寺建立の詔が発せられる15年前のことであり、民間の仏教信仰の広がりを知る上での貴重。
また女系を中心とした家族関係、行政制度(国郡郷里[こくぐんごうり]制)の整備状況の実態なども分かる。
多胡碑、山上碑と共に、上野三碑(こうずけさんぴ)と呼ばれ、2017年10月にはユネスコ「世界の記憶」に登録された。
【三家氏=佐野三家ではない?】
この碑を建てた三家氏を名乗る豪族は、山上碑に刻まれている佐野三家だと考えられていた
であれば、山上碑が建てられてからわずか46年後であり、黒売刀自とその息子の長利の僧とはそう遠くはない親族であるとも考えられる
しかし、最近の発掘調査では、史料上知られていないミヤケの存在が確実視されており、この三家は佐野三家とは別の三家である可能性も出てきた。
【名は男系、血の繋がりは女系が強い?】
この碑を建てたとされる三家の首長と思われる男性よりも、「家刀自」とされる妻、そして、結婚した娘とその子供達の存在感が大きい。
ここでは、母と娘は夫の姓で名乗ることはなく、また娘の夫の存在は皆無である。(孫の名から夫は物部君であろうと推測されるだけである)
山上碑でも述べたが、古代においては、家の中心として、女性の存在は今よりも遥かに大きく、女系の血筋が重要であったと思われる。
「家刀自」とは「主婦」と訳されるが、現代、イメージされるような家事を担う女性のことではなく、一族の長ともいうべき中心的な存在、もっと広くは地域のリーダー的な意味あいもあった。
とすれば、「他族から嫁いできた女性」で、三家の名すら名乗らない目頬刀自を、三家一族の中心「家刀自」に据えるのには違和感がある。
逆に、他族の女性が嫁ぎ先の家刀自となるのだとしたなら、「嫁ぎ先」の物部君一族の家刀自ともなるべき娘の加那刀自が子供ともども、実家の祭祀に参加していることとも矛盾する。
とすれば、目頬刀自は「他族から嫁いできた女性」ではなく、母が三家の人間で、父方の他田君を名乗るものの、三家で生まれ育った三家一族の一員だったのではないだろうか。
そして一族の人間(三家の男性が他族で設けた子の可能性も)と結婚し、三家一族の家刀自であった母あるいは一族の女性よりその地位を受け継ぎ、夫と共に三家一族の統括する立場となったのでは。
結婚しても、婚家に入ることはなく、夫が通ってくる通い婚のような状況で、生まれた子供も母の一族の元で養育されるのであれば、このような状況も納得がいく。
同様に、娘の加那刀自の子供達も、父方の「物部君」の名を受け継いでいてはいても、母の三家一族の元で育ったのではないだろうか。
碑文には、同族と思われる「礒部君身麻呂」の名もあるが、加那刀自の子供達と同様、やはり母が三家の人間で、三家で育ったからこそ、一族の結束の輪に入っているのではないか。
加那刀自が婚出して、婚家の家刀自として婚家を取り仕切っているのであれば、子供達をつれて、実家に帰り、実家の一族と共に行動・思想を共にするのは難しいように思う。
他田君を名乗る祖母、他家の嫁いだ娘、物部君を名乗る孫達が、いずれも、三家一族と共に、一族の祭祀に参加している状況は、男性中心の家制度の中ではありえないように思える。
三家一族の結束を誓った9人のうち、他家の姓を名乗るのは5人で過半数になるが、そのいずれも、「母が三家の人間で、三家で育った人間」であり、女系のつながりによって結ばれたと考えられるのではないだろうか。
いずれにしても、この時代の女性は、生まれた一族とのつながりは結婚によって変わったり、切れたりするものではなかったように思える。
それが本来の自然な姿であり、逆に、当時の人間にとって、結婚したら夫の名前に変わるとか、夫の家で、その一員として過ごし、死んだら夫の一族の墓に入るとか、男性中心の家制度の方が、理解しがたい感覚なのかもしれない。
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