【若田古墳群】「群馬県古墳総覧〈2017」では、若田町(旧若田町で現八幡町も含む)に21基ほどの記載がある。
昭和10年の県下古墳の一斉調査では、若田大塚古墳周辺に15基ほど数えられたというが、のちに確認された古墳もある。
八幡霊園の造営に伴い、峯林古墳、楢ノ木塚古墳、若田大塚古墳
、若田A号古墳、若田B号古墳の計5基の古墳が発掘調査されている。
「群馬県史」によると、7基の古墳がほぼ東西に並んでいたとあり、上記の5基の古墳と、付近に存在したはずの八幡村10号、11号古墳を加えた7基かもしれない。
若田A号古墳、若田B号古墳は発掘調査時には墳丘は既に破壊された状態だったという。
現存するのは、八幡霊園内に保存されている3基の他、八幡霊園入り口の道路沿いにある物見塚(休み塚)古墳の4基のみである。
高崎市発行の文化財調査報告書などの資料では、八幡霊園内に保存されている3基を特に「八幡霊園内古墳群」と呼ぶこともある。
同じ八幡台地の東側、八幡支台、剣崎支台には、八幡古墳群が展開するが、別とされる。(一体として考えるという説もある)

▲若田古墳群、八幡古墳群分布図
【若田原遺跡群】
若田原遺跡は烏(からす)川と碓氷(うすい)川に挟まれた八幡台地の中でも、
若田町(若田支台)に展開する中心的な集落遺跡。
八幡霊園の造成に際して発見され、1970年(昭和45年)から1972年(昭和47年)にかけて発掘調査が行われた。
調査で縄文時代前期末から後期初頭にかけての敷石住居2軒を含む竪穴住居跡27軒と、墓と考えられる穴30基が確認された。
また、古墳時代には、峯林古墳(7世紀後半)、楢ノ木塚古墳(6世紀後半)、若田大塚古墳(6世紀初頭)の3基の円墳を中心とした若田古墳群の築造と
住居が営まれていたことが明らかになった。 そのうち、埋め戻し保存されることになった
縄文時代の住居跡3軒、古墳時代の住居跡1軒と、上記3基の古墳をあわせて、「若田原遺跡群」として、群馬県の史跡に指定された。
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▲西側(県道10号)から
道路を挟んだ西側は八幡霊園
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【物見塚(休み塚)古墳】
若田古墳群中の一基で、県道10号沿いにあり、墳丘は一部、削られており、天井石が露出した状態であるが、私有地ではなく、共有地にあるようで、古墳は比較的良好な状態で保存されている。
八幡霊園とは道路を挟んだ反対側にあるため、他の古墳のように霊園造成時に発掘調査はされず、測量調査のみ行われたようである。
埋葬施設は未調査ながら、露出している部分から推測すると、横穴式石室で、奥壁、天井石は元位置のままのようだ。
霊園内に保存されている若田古墳群の3基とは少し離れており、地図上では、八幡古墳群の大島原古墳群G号古墳などの剣崎町の古墳の方が近くに見えるが、両者は剣崎支台と若田支台に分かれており、間に小さな谷を挟んでいるようなので、やはり若田古墳群のグループに入るのか。
ちなみに「マッピングぐんま」では八幡古墳群と記載がある。
【古墳の名称】
かつて、草津道がこの古墳の北側を通っており、旅人がこの古墳の上で休息をとることがあったことから、「休み塚」と呼ばれるようになったと考えられている。
また、この古墳の上からの眺望は良く、関東平野を見渡せることから、「物見塚」とも。
現地の解説版や高崎市発行の文化財報告書などでは「物見塚古墳」となっているが、「群馬県古墳総覧」や「群馬県遺跡台帳」では「大道東古墳」となっている。
「大道東((だいどうひがし)」とはかつての字名「大通東」から?。
周辺に存在した「大道東遺跡」では、土師器、須恵器の他、埴輪片も出土しており、この古墳のものか、付近に別の古墳も存在したのかもしれない。
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