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          やまのうえひおよびこふん 
国指定特別史跡 山上碑及び古墳 
ユネスコ「世界の記憶」 上野三碑 (こうずけさんぴ)
 

※写真は全てクリックで拡大します※


山名古墳群の次代の盟主墳

山名古墳群は烏川両岸 (現在の佐野・山名地区一帯)に築いたヤマト王権の直轄地「佐野三家(屯倉・さののみやけ)」の創設に関わり、山名地域を発展させた集団の墓所と見られている 。

古墳群の造営が終了した後、山名伊勢塚古墳の後続する次世代の首長墓として、北側の丘陵にこの山上古墳が造られたと考えられている。

古墳前に被葬者の息子によって建てられ、墓誌とも言われる山上碑には、被葬者の黒売刀自(くろめとじ)が佐野三家の始祖である健守命(たけもりのみこと)の子孫であることが記されている。(山上碑については下記)

古墳の築造年代や、被葬者、背景が推定できる貴重な古墳である。

この場所から250mほど西に山ノ上西古墳が確認されているが、少し遅い7世紀後半と推定されており、山上古墳の次の世代の首長墓と考えられる。


日本最古の完存する碑文

古代の石碑と銘文をもつ石塔は、全国に18例が現存するが、山上碑はその中で2番目に古く、自然石を使ったものとして、また全体が残るものとして日本最古のもの。

多胡碑金井沢碑と共に、上野三碑(こうずけさんぴ)と呼ばれ、2017年10月にはユネスコ「世界の記憶」に登録された。

碑文は日本語の言葉の順に漢字を並べる方法で記されており、外来の漢字を日本語の表現に応用した最も早い例とされている。


古墳と碑の築造年代にズレ

古墳は碑と同時期に造営されたものと考えられてきたが、近年の調査や研究から、山上古墳が7世紀の中ごろに造営され、その後、681年に碑が建立されたとする見方が一般的になってきた。

古墳と碑の間には30年ほど差があることから、山上古墳は、碑文にある黒売刀自の父親のために作られ、その後、黒売刀自が帰葬されたという説が主流のようだ。


追葬、帰葬に対する私見

石室は古い時代(中世?)には開口しており、副葬品、人骨などはなく、追葬された証拠は何もない。

碑文には「681年に、黒売刀自の息子である長利の僧が碑を建てた」とあるだけで、681年に母が「亡くなった」と記してあるわけはない ので、古墳と碑の年代がずれていることが、そのまま追葬の証拠とはならない。

また、父母の系譜を記しているにも関わらず、その墓には別の人物(定説の黒売刀自の父とすれば、首長であり長利の祖父?)が葬られていることについては何も触れていない。

母を供養するついでに、共に眠る祖父の供養もしても良さそうなものであるが、碑にその名前すら記さないのは不自然。

以上の理由から、黒売刀自の父がそこに葬られていたと考える根拠は乏しく、黒売刀自が葬られたのは681年より遥か以前で、その時にはそれほどの力がなかった長利が放光寺という大寺院の僧侶に出世した後に、母の供養と、仏教者としての自らの地位を後世に誇示するために建てた可能性も あるのではないか。


また、高崎市のHPなどでは「婚出」「帰葬」と言う言葉を使っており、大胡に嫁い で、故郷を離れた黒売刀自が死後に故郷に戻され、父の墓に葬られたという意味だろうと思う。

しかし、女性が男性の家に「嫁ぎ」、夫の姓を名乗り、夫の一族の人間と して生き、「実家に帰る」というような感覚は新しいもので、この時代に馴染まないように思える。

古代において、家の中心として、女性の存在は今よりも遥かに大きく、女系の血筋が重要であったと思われる。

 同じ上野三碑の一つ、金井沢碑でも、 この時代の女性は結婚した後も夫の姓を名乗らず、実家の一族と共に思想・行動を共にしていることが分かる。(詳細はで)
 

また黒売刀自の「刀自」は身分の高い女性に対する尊称で、主婦という意味もあり、主婦とは現代、イメージされるような家事を担う女性のことではなく、一族の長ともいうべき中心的な存在、もっと広くは地域のリーダー的な意味あいもあった。

黒売刀自は夫の一族の中で暮らした後、死後に故郷に戻され、葬られたのではなく、結婚後も一族の地から離れず(夫が妻の家を訪れる通い婚?)、一族の中心的存在であり続け、死後は長に相応しい墓所を築かれ、葬られたのではないだろうか。

でなければ、家族として、実家の人間よりも長い間、共に暮らしたはずの夫や子供が葬らないのも薄情に思えるし、逆に他家に嫁いで、長年故郷を離れていた女性を、死後に引取り、単独にしても、追葬にしても、「首長墓」に葬るのは扱いが良すぎるように思える。

しかも、一族の女性が生んだとはいえ、他族(大胡)の男性が、佐野三家一族の王墓の前に、自慢げに碑を建てるのを、現在の首長達は受け入れたのだろうか。

「先代の首長」が眠る墓所に、他族に「婚出」した人間を葬り、他族の人間である自らと母のことのみの書き、墓の主である先代の首長について一切触れない碑文を建てるのに違和感を感じなかったのであろうか

不自然に感じられてならない。

むしろ、前述した通り、黒売刀自が結婚後も一族の地から離れず、長利も佐野三家で育てられ、一族の人間という意識が自他共に強ければ納得がいく。
 

また、黒売刀自が先代の首長の墓に追葬されたのだとしても、先代を「父」でなく、「親」とし、男女を特定しない文献もある。

母や伯母など一族の女性で、黒売刀自の前の代の家刀自だった可能性もあるのではないだろうか。
 



▲古墳への入口

けっこう登るので健脚でないと厳しい
 


▲南南西に開口する石室

山の斜面に造られた山寄せ式

▲羨道から入口

▲羨道


截石切組積の横穴式石室

群馬県の終末期古墳に特徴的な、精緻な石材の加工技術で造られた截石切組積の石室。
玄室内の馬頭観音像や羨道の西側壁裏込めに文和元年(1352)銘の宝篋印塔の一部が用いられており、中世には開口していたものと思われる。

《羨道》 入口部から奥に向かって幅を狭め、4列1段の壁体構成である。

《奥壁》 1辺170cmほどの大きな切石一石からなり、ほかの石を切組した跡がある。

《側壁》 石材を二段に組み上げており左右の壁面を途中から「く」の字に折り上げている。

《天井石》 2個で下面を平らに加工しており、水平に架設されている。

《玄門》 袖石が羨道壁面と同一平面をなし、この上に板状の冠石を縦に載せている。

《冠石》 玄室前面の小壁を兼ねており、羨道天井面より約10cm高い位置に置かれている。
 


▲玄室

羨道部天井は低く、玄室は高い
 

▲玄室内の馬頭観音像

石室の開口は中世末期?
 

▲玄室から羨道
 

▲現地解説板
「特別史跡 山上古墳」

▲山上碑

古墳西側に立派な保存施設内が造られ、ポタンを押せば、明かりがつき、日本語や外国語の案内も流れるようになっている
 

▲現地解説板
 

▲タゴピー、ヤマピー、カナピーという謎のキャラクターが書かれている

恐らく、多胡碑山上碑金井沢碑
をキャラクター化したのだろう



▲山上碑 実測図
 


【石碑】 
4行53文字

【石材】 
輝石安山岩

【サイズ】
高さ:111cm 幅:47cm 厚さ:52cm

【築造年代】和銅4年(711年)
 

<碑文>


辛巳歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此
新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
長利僧母為記定文也    放光寺僧
 

<詠み方>


辛巳歳集月[かのとみ(しんし)としじゅうがつ]三日に記す。
佐野三家(さののみやけ)と定め賜える健守命(たけもりのみこと)の孫黒売刀自(くろめとじ)
此れ新川の臣の児の斯多々弥の足尼(したたみのすくね)の孫大児(おおご)の臣に娶(めあ)いて生める児、
長利の僧(ちょうりのほうし)母の為に記し定むる文也   放光寺の僧
 

<訳>


辛巳歳、(天武天皇10年(681年))10月3日に記す。
佐野三家(※2)の始祖である健守命の子孫である黒売刀自が新川の臣(※1)の子である斯多々弥の足尼の子孫である大胡の臣(※1)と結婚して、生まれた子である長利の僧が、母の為に記したものである。
 

(※1)「新川の臣」「大胡の臣」はそれぞれ現在の新里村新川、大胡町付近を支配した豪族と考えられている。あるいは姓であるとする説もある。
(「新川の臣」の墳墓は武井古墳群【群馬県桐生市(新里村)】といわれる)
(「大胡」には、截石切組積石室の関連性が指摘されている堀越古墳(大胡町15号古墳)が現存する。黒売刀自の夫かその一族のものか?)

(※2)「佐野三家」とは、大化前代に佐野の地に置かれた朝廷のミヤケとみられ、高崎市に佐野の地名が残っている。
ミヤケとは「屯倉」とも書き、朝廷の直轄領、またはその管理人のことを指す。

46年後に建てられた金井沢碑に「三家」が刻まれており、この佐野三家のことと考えられていたが、最近の発掘調査では、史料上知られていないミヤケの存在が確実視されており、佐野三家とは別の三家である可能性も出てきた。
 

所在地 群馬県高崎市山名町山神谷2104 アクセス
駐車場

駐車場あり
別名 山上古墳、山ノ上古墳、山ノ上碑
多野郡八幡村1号古墳 (上毛古墳綜覧〈1938〉)
史跡指定 国指定史跡 1921年(大正10年)3月3日指定  
国指定特別史跡 1954年(昭和29年)3月20日指定
築造年代 古墳 7世紀中葉
碑 辛巳歳=天武天皇10年、681か
形状 円墳(山寄せ式)
径:15m 高さ:5m
埋葬施設 両袖型横穴式石室
全長:6.0m
玄室長:2.7m、玄室幅:1.7m
羨道長:3.3m、羨道幅:0.9m
出土遺物  
周辺施設 葺石、埴輪列なし 更新履歴

第一回探検日(写真撮影日)  2002年04月28日
第二回探検日(写真撮影日)  2018年10月08日
最新データ更新日  2018年12月31日

調査歴 (発掘)昭和47.1.20〜昭和47.2.12、昭和34.3.12
文献 尾崎喜左雄「群馬県高崎市山ノ上古墳」、『日本考古学年報』12 1964 日本考古学協会、
『特別史跡山ノ上古墳修復工事報告書』 1975 高崎市教育委員会、『群馬県史 史料編3』 1981 群馬県
『山名古墳群』 2008 高崎市教育委員会、上毛古墳綜覧〈1938〉、「群馬県古墳総覧〈2017〉
【参考文献】
□「群馬県古墳総覧〈2017〉本文・一覧表編/古墳分布図編」群馬県教育委員会事務局文化財保護課
□「東国文化副読本 - 〜古代ぐんまを探検しよう〜」 群馬県文化振興課
□「古墳めぐりハンドブック」群馬県立博物館
□内堀遺跡群 仮称大室公園整備事業に伴う埋蔵文化財確認調査報告書 前橋市埋蔵文化財発掘調査団(1989)
□内堀遺跡群II 大室公園整備事業に伴う埋蔵文化財発掘調査概文化財発掘調査団(1989)
□内堀遺跡群X 大室公園整備事業に伴う埋蔵文化財発掘調査概報 前橋市埋蔵文化財発掘調査団(1998)
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