【山名古墳群】山名古墳群は高崎市街地の南南東約6.5kmに位置する伊勢塚及び原口を中心に分布している古墳時代後期から終末期の群集墳
。
『上毛古墳綜覧〈1938〉』にによれば、
・伊勢塚に24基、
・原口に2基、
・下西に10基、
・天神森に3基、
・稲荷森に1基、
・南に15基
合計55基の記載がある。
この他、伊勢塚に3基、原口に7基、南に2基の記載漏れが確認されており、合わせて67基の古墳が所在している。
【指定地域内には18基の古墳】
現地解説板(右図)には19基だが
高崎市のHPでは、現在、前方後円墳1基、帆立貝形1基、円墳14基、形態不明1基の合計17基の古墳となっており
「群馬県古墳総覧〈2017〉」でも右図から山名原口II-1号墳、12号墳を除いた17基が「市史跡」とされている
古い整備計画図を見ると、やはり山名原口II-1号墳と12号墳が入っておらず、17基であり、後に2基が追加指定されたものと推測したが、
高崎市文化財保護課によるとそもそも指定地域内には19基存在し、そのうち、12号墳が古墳ではなく、礫の集積と判明したため、除外し、現在は18基ということである
。
近いうちに、HP、現地説明板の修正を行うとのこと。
18基の詳細は下表を参照。
【築造年代と順序】
6世紀中頃〜7世紀前半
6世紀前半、南群の形成開始
↓
6世紀後半、北群の築造開始
↓
6世紀末、西に山名伊勢塚古墳
↓
7世紀、北群に主体が移り、終焉
↓
↓
次世代
7世紀中、山ノ上碑及び古墳
山ノ上西古墳
【佐野三家管理者一族の墳墓】
烏川両岸(現在の佐野・山名地区一帯)に築いたヤマト王権の直轄地「佐野三家(屯倉・さののみやけ)」の創設に関わり、山名地域を発展させた集団の墓所と見られている
。
背後の丘陵に所在する山上古墳(7世紀代)が、この古墳群の造営が終了した後の次世代の首長墓と考えられており、古墳前に建ち、墓碑とも言われる山ノ上碑に被葬者の黒売刀自(くろめとじ)が佐野三家の始祖である健守命(たけもりのみこと)の子孫であることが記されている。
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