【保渡田古墳群】
保渡田古墳群は、高崎市(旧群馬町)の保渡田、井出にまたがる田園地帯に、100m級の三基の大型前方後円墳(井出二子山古墳、保渡田八幡塚古墳、保渡田薬師塚古墳)を中心として、5世紀後半〜6世紀初頭にかけて造営された。
3基の前方後円墳は、連続して造営された東国有数の首長墓系列であり、1985年(昭和60年)に、「保渡田古墳群」として3基一括して国史跡に指定された。
群馬県教育委員会による「はにわ公園構想」を受けて、墳丘上に西光寺を乗せた保渡田薬師塚古墳(公園化凍結)を除き、井出二子山古墳、保渡田八幡塚古墳の周辺は公有地化され、「かみつけの里博物館」を併設させた「上毛野はにわの里公園」として整備された。

▲二子山古墳の縮小模型
【現況を生かした修景整備】
第一期として、復元整備が行われた八幡塚古墳に続き、2002年から2008年にかけて、
第二期として、二子山古墳の整備が行われた。
復元後の姿はかなり違うように見えるが、築造当時の姿にこれほどの差があったわけではない。
八幡塚古墳は「積極復元」で、葺石を施した古墳築造当時の姿に整備されたが、この二子山
は、築造当時の姿には戻すのではなく、現況を生かした「修景整備」となった。
築造当時は、八幡塚古墳と同様、墳丘全体に葺石を施し、大量の埴輪群に囲まれ、威容を
誇っていたと思われるが、現在は経年により葺石を失い、草に覆われた優しい姿である。

▲二子山古墳の推定復元図

▲井出二子山古墳墳丘測量図
■が整備前の墳丘の残存状況
【保渡田古墳群を構成する他の古墳】
これほどの巨大な前方後円墳が3基も並んでいるのに、周囲に伴う古墳が見られず、現状、3基のみで独立して存在しているように見えるが、近年の調査により、3古墳中唯一、二子山古墳にのみ、周囲に後続する古墳
(「北畑遺跡」、「保渡田Z遺跡」)が確認されている。
これらは、保渡田古墳群に葬られた王に仕えた人々の墓とされ、「北畑遺跡」の小石槨につついては、公園内(二子山古墳)の東側に移築保存されている。
また、西200mほど、井野川を挟んだ対岸にも古墳跡や竪穴式住居跡が確認されている。
さらに周囲の調査が行われれば、多くの遺構が発見される可能性があり、保渡田古墳群が前方後円墳3基のみで構成されるのではなく、大小多数の古墳を従えた一大墓域であったと証明されるかもしれない。
また、少し離れるが、彼らの支配領域と見られる近在の下芝谷
ツ古墳(5世紀後半)は保渡田古墳群の首長墓群と同時期に造られ、首長に次ぐクラスの人物の墳墓と考えられている。
【被葬者と豪族居館跡】
三つの前方後円墳の東には榛名山南東麓に君臨した首長が生前に暮らしていたと思われる豪族居館遺跡「三ツ寺1遺跡」が所在する。
古墳の築造規格の同一性、位置関係等から、この三つの前方後円墳が、三ツ寺1遺跡を本拠とした勢力の代々の首長墓であると推定されている。
保渡田古墳群が現れる以前にはこの地は不毛の土地であったようであり、最も早く造られ井出二子山古墳の被葬者
が、それまで未開拓であったこの地を開発した始祖的な存在であったと考えらている。
【3基の前方後円墳の共通点】
国史跡の3基の共通点としては、二重周堀、舟形石棺の採用などがあげられる。
先に造られた2基のみの特徴としては、4つの中島、中堤への人物、動物埴輪の集中的配置などがあるが、最後の薬師塚古墳には採用されず、規模も小さくなったのは、他の勢力の台頭があったためではないか。
【朝鮮半島との密接な関わり】
金銅製品など多数の出土品から、朝鮮半島との密接な関係が言われており、この地の開拓にも渡来人の技術の貢献があったとされる。
ちなみに、上述の下芝谷ツ古墳も、積石塚の方墳であり、渡来人の墳墓であったと考えられている。
積石塚は、西毛で5世紀中葉〜6世紀初頭にかけて朝鮮半島出身者と思われる渡来人の墳墓として採用されていたもので、下芝谷
ツ古墳からは朝鮮半島製?と思われる副葬品などが多数出土している。
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▲東側、後円部側から
古墳の空撮がCMで流された
→JR東日本CM 吉永小百合
「古墳王国 群馬篇」特集
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【井出二子山古墳】
井出二子山古墳は保渡田古墳群の3基の前方後円墳の中
で最初に造られた古墳で、最も南に位置し、規模は最大である。
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、
上郊村で30基の古墳が確認されているうちの上郊村5号古墳と採番されている。
現在は、保渡田ではなく、井出に所在する二子山ということで、井出二子山古墳と呼ばれているが、かつては「愛宕塚」とも呼ばれていたようであり、1953年には「上野愛宕塚」というタイトルの考古学雑誌が出版されている。
「群馬県遺跡台帳」に、舟形石棺から愛宕像が出土したとあるので、それが愛宕塚の名の由来か。
なお、「薬師塚」「八幡塚」もそれぞれの舟形石棺の中から
も、それぞれ「薬師像」「八幡像」が出土しているという話が伝わるが、いかにも後づけ感が漂う話である。
【発掘調査】
1929年(昭和4年)、八幡塚古墳で保渡田古墳群初の学術調査が行われたのに続き、1930年(昭和5年)、帝室博物館(東京国立博物館)の後藤守一氏ら
により発掘が行われ、その後も繰り返し、発掘調査された。
二重に巡る周堀、周堀内の4個の中島、中堤上の人物、動物の形象埴輪列、墳丘全体に施された葺石舟形石棺の採用など、すぐ後に続く八幡塚古墳との多くの共通点が確認されている。
八幡塚古墳に復元されている形象埴輪配列区にような埴輪の樹立が二子山古墳にもあり、このような動物・人物埴輪の集中配置は、この上野地域でこの二子山古墳が最も早いという。
1970年(昭和63年)、古墳の外側(前方部の北)が発掘調査され、溝区画遺構(保渡田VII遺跡突出遺構)特殊な形の遺構から、多量の人物・動物埴輪が発掘
され、二子山古墳に付属するものではないかという説もある。
保渡田Z遺跡からは他にも、小規模古墳も確認され、二子山古墳との密接な関わりが推定されている。
その後も、二子山古墳の西側で王に仕えた人々の墓と思われる「井出北畑遺跡」
が発見されており、保渡田古墳群を考える上で、大変重要である。
(かつてのメモに、昭和11年、中提より人物埴輪や顔面付円筒埴輪棺を発見とあったが、出典不明のため確認中。他の古墳の誤りかもしれない)
【左右対称の4つの中島】
井出二子山古墳、保渡田八幡塚古墳で特筆すべきは、左右対称に配置された4個の中島である。
中島を有する古墳は全国でも類例はあるが、これほどに美しく設計され、しかも、2基並んで同一規格で造られている例を他には知らない。
中島が造られた目的については諸説あり、古墳の築造と同時に組み込まれて造られたものか、後世に付け足されたものによっても、意味合いが違ってくるのだろうが、陪塚と考えられるケースもあれば、祭祀的な意味をもつとされるケースもある。
この保渡田古墳群に関しては、2基が同一規格で視覚的に意識して美しく作り上げられているところを見ると、祭祀的な意味合いで造られたものかな?と思う。
【2つの埋葬施設】
後円部頂に設けられた方形の穴に凝灰岩製の舟形石棺が安置されており、その横にも主の近親者が追葬されたと思われる竪穴式石槨(木棺)も確認されている。
薬師塚古墳、八幡塚古墳については、江戸時代(1683年〜)に舟形石棺が確認、掘りだされた記述が残っているが、この二子山古墳については、いつ確認されたのかははっきりしない。
しかし、調査時には、度重なる盗掘を受け、蓋石を失い、棺身部も大きく打ち割られた状態だったという。
また、かつて、この場所に三角点が設置された時に掘りあてられ、破壊されたという話もある。
いずれにしても、石室と石棺は破壊され、遺物のほとんどは残されていなかった。(現在、確認されている遺物のほとんどは周囲の土中に紛れ込んでいた小破片などである)
第一回訪問時には、墳丘の整備が行われる前で、埋葬施設がある後円部頂に生えていた木の根元には少し陥没しているようになっており、石槨に使用されたような石礫と凝灰岩?のような大きな目の石(破壊された石棺の破片か?)が露出した状態だった。(下の旧写真を参照)
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