【保渡田古墳群】
保渡田古墳群は、高崎市(旧群馬町)の保渡田、井出にまたがる田園地帯に、100m級の三基の大型前方後円墳(井出二子山古墳、保渡田八幡塚古墳、保渡田薬師塚古墳)を中心として、5世紀後半〜6世紀初頭にかけて造営された。
3基の前方後円墳は、連続して造営された東国有数の首長墓系列であり、1985年(昭和60年)に、「保渡田古墳群」として3基一括して国史跡に指定された。
群馬県教育委員会による「はにわ公園構想」を受けて、墳丘上に西光寺を乗せた保渡田薬師塚古墳(公園化凍結)を除き、井出二子山古墳、保渡田八幡塚古墳の周辺は公有地化され、「かみつけの里博物館」を併設させた「上毛野はにわの里公園」として整備された。
【保渡田古墳群を構成する他の古墳】
これほどの巨大な前方後円墳が3基も並んでいるのに、周囲に伴う古墳が見られず、現状、3基のみで独立して存在しているように見えるが、近年の調査により、3古墳中唯一、二子山古墳にのみ、周囲に後続する古墳が確認されている。
二子山古墳の前方部正面(西側)に「井出北畑遺跡」、北側側面の外方に「保渡田Z遺跡」、いずれも、5世紀後半〜6世紀の13基の古墳が発見され、その他、突出遺構、小石槨、土坑墓、埴輪円筒棺なども確認されている。
これらは、保渡田古墳群に葬られた王に仕えた人々の墓とされ、「北畑遺跡」の小石槨については、公園内(二子山古墳)の東側に移築保存されている。
また、近年の調査で、この西200mほど、井野川を挟んだ対岸にも古墳跡や竪穴式住居跡が確認されている。
さらに周囲の調査が行われれば、多くの遺構が発見される可能性があり、保渡田古墳群が前方後円墳3基のみで構成されるのではなく、大小多数の古墳を従えた一大墓域であったと証明されるかもしれない。
また、彼らの支配領域と見られる近在の下芝谷ツ古墳(5世紀後半)は保渡田古墳群の首長墓群と同時期に造られ、首長に次ぐクラスの人物の墳墓と考えられている。
【被葬者と豪族居館跡】
三つの前方後円墳の東には榛名山南東麓に君臨した首長が生前に暮らしていたと思われる豪族居館遺跡「三ツ寺1遺跡」が所在する。
古墳の築造規格の同一性、位置関係等から、この三つの前方後円墳が、三ツ寺1遺跡を本拠とした勢力の代々の首長墓であると推定されている。
保渡田古墳群が現れる以前にはこの地は不毛の土地であったようであり、最も早く造られ井出二子山古墳の被葬者
が、それまで未開拓であったこの地を開発した始祖的な存在であったと考えらている。
その後、保渡田八幡塚古墳、保渡田薬師塚古墳と続いて築造されたが、それ以降の首長墓は築造されなかったのか不明である。
【3基の前方後円墳の共通点】
国史跡の3基の共通点としては、二重周堀、舟形石棺の採用などがあげられる。
先に造られた2基のみの特徴としては、4つの中島、中堤への人物、動物埴輪の集中的配置などがあるが、最後の薬師塚古墳には採用されず、規模も小さくなったのは、他の勢力の台頭があったためではないか。
【朝鮮半島との密接な関わり】
金銅製品など多数の出土品から、朝鮮半島との密接な関係が言われており、この地の開拓にも渡来人の技術の貢献があったとされる。
ちなみに、上述の下芝谷ツ古墳も、積石塚の方墳であり、渡来人の墳墓であったと考えられている。
積石塚は、西毛で5世紀中葉〜6世紀初頭にかけて朝鮮半島出身者と思われる渡来人の墳墓として採用されていたもので、下芝谷ツ古墳からは朝鮮半島製?と思われる副葬品などが多数出土している。
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▲薬師塚古墳後円部墳丘
この上に薬師堂と舟形石棺
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【保渡田薬師塚古墳】
保渡田薬師塚古墳は保渡田古墳群の3基の前方後円墳の中で、
最も北に位置し、規模も最も小さく、最後に築造された。
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、
上郊村で30基の古墳が確認されているうちの上郊村1号古墳と採番されている。
現在、残存状態は悪く、前方部南側には西光寺が鎮座し、周堀のみならず、墳丘部分まで道路や住宅により大きく削られてしまっている。

▲保渡田薬師塚古墳墳丘
後円部墳頂には薬師堂があり、その前には掘り出された舟形石棺が保管されている。
他の2基と同じく、凝灰岩製の繰り抜き加太の舟形石棺だが、蓋石の破損状況が著しい。
石棺があったのは主軸に沿った後円部の中央だったとすると、現在の薬師堂の真下辺りだろうか。
【公園化されなかった】
史跡公園化事業は3期に分けて行われる予定で、八幡塚古墳、二子山古墳に続く第3期として、この薬師塚古墳も整備される計画であっ
た。
しかし、周囲がほぼ農地であった他の2古墳と違い、西光寺、民家、公道を含む周囲を買収、公有地化することができなかったのか、公園化は凍結された。
【舟形石棺と薬師堂と西光寺】
江戸時代の1683年(天和三年)、村人が埋葬のために墳丘を掘ったところ、舟形石棺が出土し、1寸8分の薬師如来像が出土したという。
そのため、高崎藩主が古墳上に薬師堂を建て、薬師像を祀るように命じ、かつて別の場所にあった西光寺を現在地に移転させたと伝えられている。
また別の話では、同年、火事に遭い西光寺が、この地に移転した来て、社殿などを建てるために、墳丘を削平したことが、舟形石棺発見につながった
とも。
経緯や順番がどうであれ、1683年に墳丘から舟形石棺が出土し、古墳上に西光寺と薬師堂が建てられたということらしい。
なお、「薬師塚」「八幡塚」「二子山(愛宕塚)」のそれぞれの舟形石棺の中から、それぞれ「薬師像」「八幡像」「愛宕像」が出土しているという話が伝わるが、いかにも後づけ感が漂う話である。
【保渡田薬師塚古墳出土品】
1683年に舟形石棺から出土した遺物の数々は、西光寺の保存庫に保管されている。(現在、一部は隣接する「かみつけの里博物館」で展示されている)
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装飾品、鏡、馬具など13種類393点(詳細は下記の出土品の項参照)にも及び、一括して国の重要文化財に指定された。
中でも馬具は2例を除き鋳造品で、国内に類例のない特殊なものだという。
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