【上野国の日本最古の石碑群 】
古代上野国(こうずけのくに・群馬県)に現存する3つの石碑、多胡碑、山上碑、金井沢碑は、日本に18例しか現存しない古代(7〜11世紀)の石碑のなかで最古の石碑群(7〜8世紀)である。
上野三碑(こうずけさんぴ)と呼ばれ、2017年10月にユネスコ「世界の記憶」に登録された。
特に、この多胡碑は 『那須国造碑(栃木県)』、『多賀城碑(宮城県)』と共に日本三古碑とも呼ばれ、書道史の上からも金石文として極めて重要とされている。
碑身に笠石をのせる形状や楷書体の文字には、当時最先端の中国文化の影響(六朝風)がみられ、一方で18世紀以降に多胡碑の拓本が朝鮮通信使を通して中国に渡り、その書風が評価され、後世の日本の書家にも影響を与えたとのこと
。
ちなみ、古代の石碑18例のうち、群馬県全体では9世紀の山上多重塔も含め、4例にもなる。
全国で計画的に造られたと認められる正八角形墳が全国で7例の中に、群馬県に2例(武井廃寺塔跡、三津屋古墳)あることを考えても、群馬県が奈良県に匹敵するような政治的、文化的背景を持っていたと考えられる。
【多胡郡創設の記念碑】
多胡碑は、奈良時代初めの和銅4年(711年)に上野国の14番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた。
ほぼ同様の内容の記事が『続日本紀』和銅四年三月六日の条にも見えている。
建郡に際しては、羊(ひつじ)という渡来人と思われる人物が大きな役割を果たし、初代の郡長官になり、碑を建てたとされる。
碑の後段には、当時の政府首脳の4名を挙げて権威付けをはかっている。多治比真人(三宅麻呂)、穂積親王(天武天皇の第五皇子)、石上尊(麻呂)、藤原尊(不比等ふひと)
多胡郡の範囲は、現在の高崎市山名町から吉井町一帯で、かつて緑野屯倉や山上碑に登場した佐野屯倉というヤマト政権の直轄地が設置されていた領域と重なる。
当時は先進的な渡来系技術が導入され、窯業、布生産、石材や木材の産出などが盛んな手工業地域になっていた。
多胡郡建郡は当時の政府による生産拠点のとりまとめと、それに伴う郡の区割りの見直しが目的であったと考えられている。
ちなみに、多胡とは、胡(中国・朝鮮などの渡来系)人が多数という意味であるようだ。
【羊とは羊太夫?】
「羊給」には解釈が様々で、羊は方角、誤字、略字など諸説あるが、現在は、羊は人名というのが定説となっているようだ。
この吉井地方には、羊太夫(ひつじだゆう)の伝説が残っており、地元では多胡碑を羊太夫の墓とし、「ひつじさま」と呼び、信仰してきたという。
吉井町誌「羊太夫栄枯記」によると、お伽話的な伝説を残している人物で、結局、最後には朝廷から謀反を疑われ、滅ぼされたようである。
その羊太夫にまつわる古跡や伝承は多いが、中でも、羊太夫の妻子が自害して葬られたと伝えられる藤岡市の七輿山古墳は有名である。
また、羊太夫は渡来人のリーダーと思われ、古代に渡来系の勢力が強かったと思われる埼玉県の秩父にも羊太夫の墓と伝えられる古墳があり、秩父の銅鉱の採掘など3携わったと言われ、関わりが強かったと思われる。
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