【西原古墳群】
西原古墳群は、水戸市北西部、那珂川の支流・田野川に北面する上市台地の標高約30mに位置する前方後方墳
である西原1号墳を盟主墳とする古墳群である。
「茨城県古墳総覧(1959)」には渡里町大字堀に
渡里一号墳〜四号墳までの4基の記載があり、渡里一号墳は前方後円墳湮滅(大字堀39)、他の3基は円墳(湮滅)となっているが、地番的にも西原1号墳〜4号墳を指すと思われる。
「重要遺跡調査報告書. 3(1986)」には、前方後円墳1基、円墳十数基となっている。
「茨城県遺跡地名表(1970)」には、
「円墳11基」とされている。
いばらきデジタルマップは情報が更新されていないらしく、「前方後円墳1、円墳11、一部湮滅」とある。
「常陸の古墳群(2010)」では、前方後円墳1基、円墳14基、総数15基となっている。
2018年(平成30年)現在、包蔵地内において、延べ19地点27次の発掘調査が行われており、墳丘が削平されたものを含め、計23基(前方後方墳1基、方墳3基、円墳19基)が確認されている。
時代的には、古墳時代前期4世紀(1号墳)と、6、7世紀の後期の古墳が検出されている。
1号墳が古墳時代前期の前方後方墳(周辺地域の古墳より規模が大きい)ということは、東国の古代寺院(台渡里廃寺跡)を造営するような勢力がこの地にあったということになり、関連が指摘されている。(下記の「台渡里廃寺跡」の項を参照)
後世の耕作などで墳丘が失われている古墳も多く、まだ多くの未発見の古墳が埋もれている可能性もある。
【調査歴】
1951年(昭和26年)、茨城高等学校史学部により、5号墳〜7号墳の3基が発掘調査された。
(調査時のスケッチは右図のA→)
1997年(平成9年)、水戸市教育委員会による分布調査により、前方後円墳1基、円墳7基を擁する古墳群であると報告された。
2009年(平成21年)、明治大学考古学研究室によって測量調査が行われ、前方後円墳とされていた1号墳が前方後方墳であることが確認された。
(調査時の分布図は右図のB→)
2012年(平成24年)度、15号〜20号墳の6基の埋没古墳を検出され、19号、20号からは切石積みの横穴式石室が確認された。
2018年(平成30年)には第21〜23号墳までの調査が行われている。
(調査時の分布図は右図のC→)
【台渡里廃寺跡】
西原古墳群から東に2kmほどのところに7世紀後半から7世紀末に造営され東国の古代寺院の一つの台渡里廃寺跡(だいわたりはいじあと)が所在する。
台渡里廃寺は常陸国 那賀郡衙(ひたちのくに なかぐんが)に関連する寺院であった可能性が高く、古墳群を築いた勢力との関係が指摘されている。
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▲西原古墳群分布図
A:茨城高等学校史学部のよる発掘調査 1951年(昭和26年)
B:茨城県水戸市西原古墳群測量調査報告(2009-2010)
C:水戸市発掘調査報告会2017−2018発表要旨
上記の3時期の分布図で、C図のものが最も新しく、A図は7基(無名墳含む)、B図は15号墳まで、C図は23号墳まで記されている。
B図とC図は2号墳〜4号墳、9号墳の4基の位置が違っている。
C図には、2012年以降、新しく確認された16号墳から23号墳が記されており、石室が見つかった埋没古墳の19号墳も記されている。
【9号墳と19号墳の位置の謎?】
B図の9号墳の位置は、C図では19号墳となっており、9号墳は少し離れた1号墳の北西側にある。
B図より前の時期に既に9号墳と報告されていた古墳が、実は1号墳の北西側にあったと、後に判明したため、9号墳の位置を訂正し、
そして、B図で9号墳としていた古墳を、新たに19号と番号を振ったのか。
しかし、Bの9号墳=Cの19号墳の位置は、古いAのスケッチで見ると、道路に三角に残された場所に小山と石造物らしきものが書かれており、
また、ストリートビューで見ても、墳丘の一部らしき高まりが残されている。
19号墳は埋没古墳ということで、地上に墳丘の痕跡がなかったものと考えられるが、上記の通り、墳丘らしきものは以前からあり整合性が取れない。
墳丘らしき高まりが19号墳とは関係のないただの盛り土で、それを取り去った下から、埋没していた古墳が確認されたのだろうか。
現地保存できないからこそ、19号墳の石室が移築されたのだと考えると、調査後も高まりが残っているとなると、やはり整合性がとれない。
高まりは、9号でも、19号でもない、塚か自然の小山で、その脇を通る道路の下などから、埋没していた19号墳が発見されたのか?
当時の発掘調査報告書が手に入らないので、よく分からない。
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