【玉里古墳群】
旧玉里(たまり)地域は「常陸の古墳群」によると、古墳群、古墳合わせて112知られており、小美玉の他の地域と比べると密度が10倍以上であるという。
特に玉里の南半は古墳群が密集しており、それぞれの盟主墳の距離が1kmに満たず近接していることから、総じて「玉里古墳群」という名で括ることもあるようだ。
なお、「玉里村史(1975)」では、村内98基の古墳を「田木谷、栗又四箇古墳群」「上高崎古墳群」「下高崎古墳群」「上玉里古墳群」「下玉里古墳群」の5つの支群に大別している。
権現山古墳は、現在の地名は「高崎」から微妙に外れているが、「高崎古墳群」「下高崎古墳群」とする資料がある。
【権現平古墳群】
権現平古墳群は茨城県小美玉市(旧玉里村)でも、南側の古墳密集地域に所在する前方後円墳の権現山古墳を盟主墳とする古墳群である。
「茨城県遺跡地名表(1970)」には、
「権現山古墳 円墳」とされている。
「重要遺跡調査報告書. 1(1982)」には
「権現山古墳は、玉里村において最大規模の前方後円墳」とある。
いばらきデジタルマップには
「前方後円墳1基、 円墳6基、方形周溝墓2基(一部湮滅)」となっている。
「常陸の古墳群」には
「前方後円墳1基、 円墳6基、方墳1基、その他(方形周溝墓)2基 総数10基」となっている。
(下記の権現平古墳群一覧表参照)
【玉里の六井六畑八館八艘】
旧玉里村には「六井六畑八館八艘」(ろくい ろくはた はったて はっそう)という言葉が残る。
玉里村に所在する史跡を表す言葉で、6つの井戸、6つの畑、8つの館(城跡)、8つの艘(前方後円墳)という意味で、水や土地が豊かで、古くから人々が生活を営んだ
地であるということである。
この権現山古墳も、八艘(前方後円墳)の一つとして数えられていたということである。
「玉里八艘」とも。
|

▲西から 権現山古墳
看板の後ろの窪みが周溝。
背後は墳丘のくびれ部付近
|
【権現山古墳】
旧玉里地区の南半の古墳密集地域に所在する権現平古墳群の盟主墳にして、唯一の前方後円墳。
墳丘長89.5mで、小美玉市内では、最大規模で、前方部が大きく発達した最盛期の前方後円墳と思われる。
古墳群中では権現平5号墳と採番されており、固有名称は権現山古墳。
古墳群は、2022年現在、10基を数えられているようだが、そのうち3基はこの5号墳(権現山古墳)の陪塚と考えられる。(左の分布図参照)
1996年(平成8年)、古墳公園としての整備のため、権現山古墳の性格を把握することを目的として、主に主体部、造り出し部、埴輪列などの発掘調査が行われた。
主体部は、大きく攪乱されていたが、後円部と前方部それぞれに存在したことが想定され、造り出しは墳丘くびれ部西側に付設されていた。
調査の結果、5世紀末〜6世紀初頭の築造と推定される。
【後円部の箱式石棺?】
後円部墳頂は、本来はさらに1mほど上まで盛土があったと思われ、大きく削られている。
墳頂には調査前より、雲母片岩(筑波石)の石棺材と思われる破片が散乱しており、攪乱されている様子だったという。
調査により、主軸下より、雲母片岩片と僅かな白色粘土が確認されたが、大きく破壊され、全ての石を抜き取られたようで、構造物の本体を確認できなかったということである。
粘土粒が石棺を設置したと思われる基底部とすると、雲母片岩を使用した組み合わせ式の箱式石棺が想定されるが、明確ではない。
【前方部の主体部】
前方部の墳頂の中央部にはかつて国土地理院の三角点(三角測量に用いる際に経度・緯度・標高の基準になる点)があった。
しかし、前方部幅は後円部径に拮抗するほどに発達しており、前方部墳頂はかなり広い平坦部を有することから、前方部にも主体部があることが想定されたので、三角点を移動し、発掘調査が行われた。
木棺直葬と思われる埋葬主体が確認されたが、三角点埋設工事の際に大規模に掘削工事が行われたようで、わすがに太刀と鉄鏃が原位置とどめていたのみで、墓壙や構造などはほとんど確認できなかったということである。
|