【旧常北町(小松村)の古墳】
茨城県東茨城郡城里町の旧常北町地区には「茨城県古墳総覧(1959)」には4基の記載しかなく、旧小松村増井には記載がない。
ただし、「東茨城郡誌」には、増井にある村社・鹿島神社のすぐ東南に数基の古墳があり、大正6年に石棺を発掘したとある。
その南の藤井川に降りる坂頭の東に沿って、古墳があり、土砂が崩れて大石が露出したと書かれており、(これが増井古墳と思われる)、その東にも古墳があったとある。
さらに、行政区をまたぐが、増井のすぐ東に接する飯富村藤井に、陪塚を持つ一大古墳(前方後円墳?)があり、大石槨が発掘されたとある。(十万原古墳群?)
ちなみに、「茨城県重要遺跡調査報告書1(1982)」には水戸市藤井町の十万原古墳群について、全長58mの前方後円墳と6基の円墳と記載されている。
古墳が少ない地域なのではなく、早い時期に周辺の多くの古墳が湮滅したようである。
【増井古墳】
線刻壁画を持つ高塚古墳(地上に土で盛られた墳丘を持つ古墳)であり、県内でも数例の貴重な古墳とされているが、自治体の文化財等には指定されていない。
旧水戸街道により西側を切断され、東側墳丘と奥壁と側壁の一部を残すのみとなっているため、墳丘の規模、形状は不明である。
現状、増井地区でただ1基、独立して存在しているように見えるが、かつては周囲に複数の古墳が存在したという。
「茨城縣に於ける古墳の分布(1944)」に、
「小松村 大字増井 古墳群」とあり、
上記の「茨城群誌」の記載内容を合わせて考えると、昭和初期の頃までは、鹿島神社以南に、古墳群が残存していたのかもしれない。
「茨城県古墳総覧(1959)」にも記載はない。
「茨城県遺跡地名表(1970)」には、
「円墳 墓地」とされている。
いばらきデジタルマップや、装飾古墳のリスト、周辺の発掘調査報告書等には名前のみの記載はあるものの、詳細は不明である。
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▲北側から
墳丘は街道により切断されている
(墳上の共同墓地はプライバシーに
配慮してぼかし加工してあります)
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【線刻壁画】
露出した凝灰岩の一枚岩の奥壁に、「大」の文字が線刻されているという。
解説板は設置されているものの、隣接する水戸市の国指定史跡の吉田古墳のように埋め戻し保存されているわけでも、覆い屋等で保護されるわけでもなく、野ざらし状態である。
この「大」の文字の意味は何か、古墳築造当時のものではなく、後世に刻まれた可能性はないのかなど疑問はつきないが、調査されたことはないのか、資料が見つけられない。
貴重な存在という割には、扱いが少々ぞんざいに感じるのは、半壊状態の石室に、線刻が「大」の文字のみだからだろろうか。
【旧水戸街道?】
墳丘の西半分は旧水戸街道により切断されたとあるが、西側を通る道が旧水戸街道か?
水戸街道は江戸の千住宿(東京都足立区)から、水戸をつなぐ街道であるが、この城里町は通らない。
古墳のすぐ西を通るのは県道52号石岡城里線である。
石岡城里線は石岡市府中を起点に、水戸市内を経由して城里町石塚を終点とする路線で、通称、石塚街道と呼ばれているそうである。
この街道の石岡市内の区間は、江戸時代の水戸街道だったというので、その延長線上であり、水戸へ繋がる街道ということで、ここも水戸街道と呼ぶのか。
現在は西側に立派な道路ができているが、旧の石塚街道はこの細い道であり、旧水戸街道とも呼ばれるのかもしれない。
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