古墳の森TOP埼玉県の古墳秩父市の古墳秩父地方の古墳地図


           いいづか・まねき32ごうふん / いいづか・まねきこふんぐん
埼玉県指定史跡 
飯塚・招木32号墳 / 飯塚・招木古墳群

※写真は全てクリックで拡大します※


飯塚・招木古墳群

荒川左岸の寺尾の河岸段丘上、南北1,300m、東西300mにわたり展開されている秩父地方最大の群集墳で、大型円墳を小型円墳が取り巻くようにして構成されているが、方墳が存在する可能性も指摘されている。

2020年現在の秩父市のHPでは129基となっている。

埴輪を伴っておらず、副葬品も乏しいことから、埴輪が消滅した後、副葬品を埋葬する風が衰退した、7世紀後半から8世紀前半にかけて郷戸主(※)層が築造した古墳群と考えられている。


古墳群中第二の規模で古くから開口

飯塚・招木古墳群は大きく飯塚、招木地区に分かれており、32号墳は南側の飯塚地区に所在する。

1973年(昭和48年)の分布調査時に調査された124基の古墳の中では2番目に大きな円墳で、石室が古くから開口しており、玄室の確認調査が行われた4基のうちの1基。

1926年(大正15年)の書物にも、この32号墳と思われる石室(1973年調査時の実測図とほぼ同じサイズ)が記載されているが、天井石2枚で蓋をしているとあるので、その時点では天井石は2枚とも落ち込んでいなかったのかもしれない。


氷雨塚?

飯塚・招木古墳群の存在は古くから知られており、 「新編武蔵風土記稿」「秩父志」などで、飯塚に「氷雨塚」「天王塚」など 多数の古墳の存在が伝えられている。

氷雨塚」とは、畑仕事中に氷雨が降った時に雨宿りする横穴という意味で、秩父地方にはこの名で呼ばれる古墳が多数存在する。(天神塚古墳(大堺4号)大堺3号古墳円墳大塚古墳大渕古墳小柱氷雨塚、久那氷雨塚古墳などなど)

飯塚に存在したという氷雨塚も横穴式石室が開口していたため、この名で呼ばれたと思われるが、どの古墳を差すかは不明である。

1973年(昭和48年)調査時に、10基の古墳の玄室が露出していることが確認されているが、調査報告書にも「氷雨塚」についての言及はない。

「氷雨塚」が現存するなら、古くから開口し調査された古墳の中でも最大で、代表的なこの32号墳が「氷雨塚」の可能性が最も高いように思われるが、「新編武蔵風土記稿」に伝えられるサイズとは微妙に違うようでもあり、は既に消滅した古墳という可能性もある。
 



▲南から

墳頂近くに大きな石が見える
 


▲露出している大石

横穴式石室の天井石

▲天井石が崩落した横穴式石室

天井石は元は3枚と考えられて
おり、中央に縦に立っている
のが3枚中2枚目の天井石で、
右側の上が3枚目の天井石。
 

▲崩落した天井石

1973年の調査時には3枚目
天井石(中央)は上に乗っており
石室には落ち込んでいなかった

左記の通り、大正時代には
2枚とも落ちていなかったかも。
震災等の自身の影響か?
 

▲岩の間から撮影した奥壁

かろうじて、1973年の調査時と
同じであることが分かる

▲1973年の調査時の石室の様子

玄室内に落ち込んでいるのは
2枚目のみで、3枚目は上に
乗っている状態だった
 

▲両袖型横穴式石室と天井石の
実測図(1973年調査報告書より)
 

▲飯塚・招木古墳群分布図

(注)調査報告書などを元に
独自に作成したもので、
誤りがある可能性もある
 
所在地 埼玉県秩父市寺尾  (旧字飯塚)
所有者:個人
アクセス
駐車場

秩父地方の古墳地図
個々の古墳の詳しい位置は分布図を要確認
別名 飯塚招木古墳群32号墳
史跡指定 埼玉県指定史跡 「飯塚・招木古墳群」 124基
1976年(昭和51年)年3月30日指定
築造年代 7世紀後半から8世紀前半
形状 円墳
径:22.30m×21.00m 高さ:3.60m
埋葬施設 両袖型横穴式石室
サイズは上記の測量図を参照
出土遺物  
周辺施設  
調査暦 1973年(昭和48年) 分布調査(124基)
1977年(昭和52年) 道路敷設に伴う発掘調査(7基)
更新履歴

探検日(写真撮影日) 2020年01月30日
最新データ更新日 2020年02月10日

文献 秩父市文化財調査報告書(48年、49年度)
埼玉県史 資料編2 原始・古代
埼玉県古墳詳細分布調査報告書 (1994)
さいたま古墳めぐり古代ロマンの70基(さきたま双書)
埼玉の古墳 比企・秩父 さきたま出版会
埼玉県の歴史 (県史)



【PR】 

 

inserted by FC2 system