【飯塚・招木古墳群】
荒川左岸の寺尾の河岸段丘上、南北1,300m、東西300mにわたり展開されている秩父地方最大の群集墳で、大型円墳を小型円墳が取り巻くようにして構成されているが、方墳が存在する可能性も指摘されている。
2020年現在の秩父市のHPでは129基となっている。
埴輪を伴っておらず、副葬品も乏しいことから、埴輪が消滅した後、副葬品を埋葬する風が衰退した、7世紀後半から8世紀前半にかけて郷戸主(※)層が築造した古墳群と考えられている。
【古墳群中第二の規模で古くから開口】
飯塚・招木古墳群は大きく飯塚、招木地区に分かれており、32号墳は南側の飯塚地区に所在する。
1973年(昭和48年)の分布調査時に調査された124基の古墳の中では2番目に大きな円墳で、石室が古くから開口しており、玄室の確認調査が行われた4基のうちの1基。
1926年(大正15年)の書物にも、この32号墳と思われる石室(1973年調査時の実測図とほぼ同じサイズ)が記載されているが、天井石2枚で蓋をしているとあるので、その時点では天井石は2枚とも落ち込んでいなかったのかもしれない。
【氷雨塚?】
飯塚・招木古墳群の存在は古くから知られており、
「新編武蔵風土記稿」「秩父志」などで、飯塚に「氷雨塚」「天王塚」など
多数の古墳の存在が伝えられている。
「氷雨塚」とは、畑仕事中に氷雨が降った時に雨宿りする横穴という意味で、秩父地方にはこの名で呼ばれる古墳が多数存在する。(天神塚古墳(大堺4号)、大堺3号古墳、円墳大塚古墳、大渕古墳、小柱氷雨塚、久那氷雨塚古墳などなど)
飯塚に存在したという氷雨塚も横穴式石室が開口していたため、この名で呼ばれたと思われるが、どの古墳を差すかは不明である。
1973年(昭和48年)調査時に、10基の古墳の玄室が露出していることが確認されているが、調査報告書にも「氷雨塚」についての言及はない。
「氷雨塚」が現存するなら、古くから開口し調査された古墳の中でも最大で、代表的なこの32号墳が「氷雨塚」の可能性が最も高いように思われるが、「新編武蔵風土記稿」に伝えられるサイズとは微妙に違うようでもあり、は既に消滅した古墳という可能性もある。
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