【飯塚・招木古墳群】
飯塚・招木古墳群は荒川左岸の寺尾の河岸段丘上、南北1,300m、東西300mにわたり展開されている秩父地方最大の群集墳で、大型円墳を小型円墳が取り巻くようにして構成されているが、方墳が存在する可能性も指摘されている。
埴輪を伴っておらず、副葬品も乏しいことから、埴輪が消滅した後、副葬品を埋葬する風が衰退した、7世紀後半から8世紀前半にかけて郷戸主(※)層が築造した古墳群と考えられている。
(郷戸とは律令制で、戸籍編成上の単位。郷=50戸、1戸=平均20余人)
出土遺物が少ないのは、盗掘が行われたためとも言われる。
石室の入口はみな、南の武甲山の方向に向いており、武甲山に対しての
山岳信仰があったのかもしれない。
飯塚支群と招木支群の間に空間が存在するのは、開墾などにより、多数の古墳が破壊されたためと思われる。
【資料により古墳数が前後する】
1973年(昭和48年)、古墳群の分布調査で124基の分布図が作成されている。
(古墳122基+不明2基)
秩父市文化財調査報告書(48年、49年度)記載の分布図表を見ると、23号に1、2という枝番があり、「23-2」についてはリストにもなく、全くの謎であるが、これをカウントすると125基となる。
1976年(昭和51年)、飯塚73基、招木51基、計124基で埼玉県の史跡として指定されてい。
1977年(昭和52年)、分布図作成時には確認されていない古墳2基(125号、126号墳)が確認されている。(126基)
しかし、1979年(昭和54年)の現地の石碑には122基となっている。
1982年の「埼玉県史
資料編2 原始・古代」では、3つの支群に分類され、飯塚支群73基、招木支群48基、その他3基の124基としている。
「埼玉県古墳詳細分布調査報告書(1994年)」と、2020年現在の秩父市の遺跡地図には125基の記載がある。
「さいたま古墳めぐり」(1997年)では124基となっている。
「埼玉の古墳
比企・秩父 (2004年)」では、飯塚地区73基、招木地区53基の126基としている。
古墳数が微妙に前後するが、最初の分布調査時に確認された124基に、下のいずれかをカウントするかしないかで数が変わっているのではないだろうか。
(1) 分布図にはあるがカウントされていない「23-2」
(2) 元の分布図にはなかった道路建設時に2基(125号、126号墳)
(1)をカウントしたものが125基とされ、(1)を無視し、(2)のみをカウントしたものが126基となっているかもしれない。
その後、新たに古墳が発見されたのか、2020年現在の秩父市のHPでは129基となっている。
【氷雨塚、天王塚】
飯塚・招木古墳群の存在は古くから知られており、
「新編武蔵風土記稿」「秩父志」などで、飯塚に「氷雨塚」「天王塚」など多数の古墳の存在が伝えられている。
1973年(昭和48年)の調査時点で、もっとも良い状態で玄室が確認され、測量された32号墳が、「氷雨塚」の可能性が高いかもしれない。
また、古墳群中で、唯一、天神社を祀っていた55号墳が「天王塚」の可能性もあるが、調査報告書では「天神塚か否かは不明」としている。
いずれも決め手となるものはなく、調査時までに「氷雨塚」「天王塚」は消滅してしまっていた可能性もある。
【古墳群の調査】
1973年(昭和48年)に行われた古墳群の分布調査で、124基が確認され、個々の古墳の測量がされている。
また、発掘調査ではないが、玄室の一部または大部分が露出していた10基の古墳のうち、32号
墳、69号墳、46号墳(奥壁のみ)、52号墳(奥壁のみ)など4基の石室について、規模、状態などの確認が行われている。
1977年(昭和52年)、和銅大橋の架設による秩父市道38号線(現、秩父市道幹線8号、通称招木古墳通り)の新設に伴い、路線にかかる招木地区の古墳7基(79号、89号、100号〜102号、125号、126号)の発掘調査が行われた。
125号と126号は墳丘がほとんど失われていたため、先の分布調査では確認されていなかった古墳である。
7基全ての古墳で横穴式石室が確認され、そのうち、89号墳のみ、市道脇に移築復元されている。
【古墳群のナンバリング】
飯塚・招木古墳群は、飯塚地区の中央を東西に横切る道路の南側にある1号墳を基点に西から東へ、北から南へと順番に番号を振り、最南端へ行ったところで
東の離れ小島の3基を数えた後、最北端に移り、飯塚地区の古墳のみをカウントしながら南に下り、開始地点まで戻る。
そのため、飯塚地区最初の1号から4号と飯塚地区最後の70号〜73号が離れた番号にもかかわらず、道を挟んで仲良く隣り合っている。
飯塚地区の73基が終わると、古墳群の北側の招木地区に移り、74号墳から始まり、西から東へ、北から南へと降りてきて、飯塚地区から続く道の一番最初の古墳が、124号墳となる。
その後、招木古墳通り建設時に、道路にかかる位置に新たに発見された2基に125号、126号と振られた。

▲古墳群の碑
飯塚地区の西の入口、5号墳の前、
招木地区の北、89号墳(復元)の前、
2箇所に同じ物が建てられている。
【23号墳は2基?】
飯塚地区に号数不明の古墳が1基あるが、1973年(昭和48年)の調査報告書の分布図には、「23-2」と番号が振られており、23号墳は「23-1」となっている。
両古墳は隣り合っているわけではなく、離れた位置にあり、一覧表にも「23」は1基のみの記載で、「23-2」について、報告書内で特に言及されていない。
【個別ページの作成について】
古墳群は現状、大部分が草木の多い茂る雑木林の中にあり、非常に見学は困難な状態にある。
特に飯塚地区の南部は、細かい草木が行く手を阻み、視界を遮ることも多く、自分のいる位置と、方角がよく分からなくなることもしばしば。
撮影した写真は、号数の特定が困難なものも多く、草木に覆われた小円墳は、見た目の似たようなも多いため、全ての古墳について個別ページを作成することは難しいと判断し(面倒になって)断念した。
また、招木地区に石室が見られる古墳が数基あったようだが、周辺は工事中で見学できなかった。
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