【村君古墳群】
村君古墳群は、群馬県との境、利根川の急激な曲がり角の自然堤防上に築かれた古墳群で、榛名山噴火の堆積物から、5世紀末〜6世紀初頭と
考えられている。
8基の存在が知られているが、現在、墳丘が現存するのは、永明寺古墳、御廟塚古墳とこの稲荷塚古墳の3基のみである。
100mほど南西にある御廟塚古墳は彦狭島王(ひこさしまのおう)(崇神天皇の皇子で、東国に赴任し、毛野氏の祖となった豊城入彦命の孫)の墳墓であるという伝承がある。
すぐ南に所在する加須市の樋遣川古墳群も、彦狭島王の子である御諸別王の「陵墓伝説地」と
なっており、稲荷塚古墳上の鷲宮神社に合祀された横沼神社は御諸別王の娘を祀るといい、豊城入彦命の末裔の伝説の深い地である。
【浅間塚跡=No.54号墳?】
かつて、御廟塚古墳の北西に所在した
という円墳で、1947年(昭和22年)9月、利根川の決壊後、堤防の補強工事の採土により消滅した。
村君古墳群には、2基の浅間塚跡があるが、「堤」ではなく、「下村君」に所在した方で、浅間社はかつて御廟塚古墳にあった成就院のものだという。
「埼玉の古墳」記載の村君古墳群8基のうちに含まれていたが、「埼玉県古墳詳細分布調査報告書
」の8基の中には下村君の浅間塚の記載はなく、代わりに下村君に「No.54号墳」という名称のものがあるので、同一のものではないかと思われる。
古墳上にあった浅間社は稲荷塚古墳上に鎮座する鷲宮神社の境内に移されたという。
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▲南から浅間塚(移築?)御廟塚古墳の東側100mほどにある稲荷塚古墳の鳥居
の西側にある小山。
浅間塚と言うが、羽生市内の浅間塚の記録を調べても記載にはなく、他にこの塚についての情報は得られなかった。
これは、消滅した浅間塚から移されたという浅間社を祀ったものではないだろうか。
斜面はなだらかで、きれいに剪定された樹木(つつじか?)が並んで植えられており、花や紅葉の時期は美しいだろうと思われる。
いかにも美観を重視して新しく造られた公園の小山という感じで、古い塚という感じもなければ、山岳信仰における浅間塚の雰囲気も全くない。
封土を取られ、消滅した浅間塚から、お社のみを境内に移動して、お祀りする際、ただ平地に置くのではなく、失われた墳丘を再現したと考えると納得できるものがある。
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▲小山の上にある浅間社
小さいが、いかにも古く、由緒がありそうなお社が、美しい小山の上に大事に祀られている。
三間(約5、6m?)ほどの小円墳に祀られていたなら、この規模のものではないかと思われる。
※注意※
残念ながら、現時点で、この浅間社を消滅した浅間塚から移されたものとする情報はどこにもなく、あくまでも個人的な推測にすぎない。
また、資料を照らし合わせて、浅間塚=No.54号墳と推測したが、別の古墳である可能性もある。
その場合、村君古墳群は総数9基となる。
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