【的場古墳群】
入間川と小畔川に挟まれた入間台地の最南端、旧霞ヶ関村の的場、吉田、上戸に所在した古墳群。
前方後円墳の牛塚古墳を中心に円墳30基以上で構成されており、「的場六十六塚」とも呼ばれていたという。
現在、市の史跡に指定された牛塚古墳と、そのすぐ南西に近接する浅間塚古墳の2基の墳丘が確認できるのみである。
ただし、浅間塚古墳については「埼玉の古墳
北足立・入間」に記述があるものの、「埼玉県古墳詳細分布調査報告書
」には牛塚古墳のみで、浅間塚古墳や他の古墳については記載がない。
「新編武蔵風土記稿」など古い書物には、他に「初雁塚」「的塚」「旗塚」、前方後円墳で最大であった「三芳野塚」などの記載があるが、いずれも鉄道の敷設工事や開墾などにより破戒されたようである。
【牛塚は川越地方では最大】
かつて周辺に「三芳野塚」など、この牛塚より大きいと思われる古墳が存在したと伝えられており、前方後円墳としては大型ではないが、現存する古墳の中では、川越地方で最大のようである。
川越市史編さん事業のために、1965年(昭和40年)〜1966年(昭和41年)
の間に3回、発掘調査が行われたが、この間に、三笠宮殿下も現地を訪れられたそうである。 入間川を挟んで対岸の南大塚古墳群の上円下方墳の山王塚古墳とは対峙する位置に所在しており、両者の勢力の関係が気になるところである。
【二回の埋葬が行われた】
後円部の南西に向く横穴式石室で、二回の埋葬が行われたことが確認されている。
第一次(築造当初)は、玄室が河原石積みで、羨道は粘度の土壁である。
玄室のプランは弱い胴張り(両壁が左右に丸く膨らむ)がある隅丸長方形で両袖型で、二次埋葬時に長方形の片袖型に造り直されている。
棺床面は一次埋葬の上に約40cmの高さに粘度を混ぜたローム土を盛り固めて、円礫を敷き、羨道は一次のものを用いている。
それぞれの埋葬面から、多数の副葬品(一括して川越市の文化財に指定・下記参照)が出土しており、高句麗系渡来人との関係が言われている。
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