【川越城下の消えた古墳群】
川越は小江戸と言われるように、現在は整然とした街並みだが、川越を開拓し、川越城を築いた太田道真・太田道灌父子の時代(室町時代1400年代半ば)に、存在していた多くの古墳が削平されたと思われ、六塚稲荷(むつづかいなり)神社の由来ともなっている。
「新編武蔵風土記稿」には
「六塚稲荷又六丘稲荷とも呼ぶ。相伝ふ昔太田道真この地に住せし時、荒野を開かんとして、古丘六つを穿(うがち)崩してそのあとへ稲荷六社をたてしが、其後五社をば廃してこの一社に合祀す」
と、太田道真が6つの古い塚を崩し、そこに6つの稲荷社を建造し、その後、6つの内、5社を無くして、1つの稲荷神社にまとめて祀ったという記載されている。
合祀したという稲荷神社は、菓子屋横丁の北側にある六塚稲荷神社(元町)と思われる。
六軒町にある六塚稲荷神社にも同様の伝えが残るというし、付近には雪塚稲荷神社、篠田塚稲荷神社など、六塚と同様、塚があった場所に祀られたのではと思わせるお稲荷様が存在する。
早い時代に開発され、建造物が所狭しと立ち並ぶ川越市街で、六塚の所在地を求めるのは至難の技であるが、川越城本丸より西側で、元町六塚稲荷神社
までの間にあったものと推測される。
【六塚古墳群(仮)か】
その証拠ともいえる古墳の石室)が、2019年になって、川越城跡内の宅地を取り壊した際に発見された。(右記参照)
その西150mほど、六塚稲荷との中間あたりに所在する名所『時の鐘』の周辺などでは、以前から土木工事の際に埴輪の破片が見つかっており、この場所にも古墳があったと推測される。
川越城下町を切り開いた際に、多くの古墳が削平されたという伝承は真実であり、6つの塚、あるいはそれ以上の古墳群があった可能性も出てきたという。(ここでは仮に『六塚古墳群』とする)
六塚稲荷神社、時の鐘付近、右記の古墳跡の3か所が、太田氏に削平された六塚跡とすると、少なくとも他に3か所、川越の市街地の下に眠っているはずである。
今後、建造物の建て替えや、土木工事などで、新たな古墳跡が発見されることも期待できる。
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▲仙波古墳群+六塚古墳群(仮)
分布図
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【大手町4丁目古墳跡(仮)】
2019年、川越市役所庁舎から200メートルほど南の住宅地で、6世紀末〜7世紀中期の古墳の石室が発掘された。(ここでは仮に『大手町4丁目古墳跡』とする)
川越城跡内であり、六塚稲荷神社と川越城本丸の間という立地(左図参照)からも、太田道真が削平したと伝えられる6つの塚のうちの一つの可能性があり、川越城の築城時、あるいはそれ以前、城下町が作られる前に削平されたものと思われる。
確認された古墳の石室は、半地下横穴式で、墳丘を削り、平らにされた際に、石室上部は破壊されたが、地下の部分の石組みは取り除かれず、壁下部の河原石の列と、砂利を敷きつめた石室の床面
が残っていたということである。
木棺や石棺の痕跡は見つからなかったが、床面に置かれた鉄製の直刀やガラス玉などの副葬品も多数見つかっている。
古墳の概要は以下の通り。
大手町4丁目古墳跡(仮) |
形状 |
円墳
直径23m規模(推定) |
石室 |
半地下式
南北約5m 東西約1.7m |
出土遺物 |
先端部が欠損した直刀(残存長:約60cm)、金めっきした銅製の柄頭(つかがしら)、耳環(じかん)4点、
ビーズ状の紫色や緑色のガラス玉が数十点、鉄製の鍔(つば)や矢じり、土器片 |

▲発掘された古墳の石室床面
(写真:川越市教育委員会)
調査後、埋め戻しされたのか、破壊されたのか、現在はビルが建っている。
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