【美尾屋十郎廣徳 墳墓説】廣徳寺は、三保谷郷を本拠地とする豪族で、鎌倉時代、源頼朝に仕えた御家人である美尾屋(みおのや)十郎廣徳の創建と言われ、館跡ともされる境内には遺構が残っている
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美尾屋十郎廣徳は「平家物語」や「吾妻鏡」にも登場している。
国指定の重要文化財の大御堂(おおみどう)は13世紀はじめ、源頼朝の妻である北条政子が美尾屋十郎廣徳の菩提を弔うため、美尾屋氏の館跡に建立したものと伝えられている
。
大御堂の北側の塚は美尾屋十郎廣徳の墳墓とされているが、古墳自体は寺伝の出土遺物や塚の形状などから見て、奈良時代の円墳と考えられるようである。
美尾屋十郎廣徳が生きていた鎌倉時代とは500年程度の隔たりがあるので、既にあった古墳を利用して、美尾屋十郎廣徳を葬り、伝承の通り、その弔いのために、大御堂を建立した可能性もある。
美尾屋の名は、現在、ここから北の美保谷(みほや)宿に残り、美保谷宿古墳群には2基の古墳が残存している(詳細は三保谷宿古墳群と表古墳群)
【表古墳群】
表地区の廣徳寺付近には、この廣徳寺古墳と廣徳寺1号〜3号古墳の4基確認されている
廣徳寺1号〜3号古墳は径:20mの円墳とのことだが、所在、現状等の詳細は不明
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養竹院に組み合せ式の箱式石棺に用いたと考えられる緑泥片岩3枚が保存されているとのことで、現地で一枚だけそれらしき緑泥片岩を確認することができた。
美保谷宿のすぐ北の東大塚にある大塚古墳から出土した箱式石棺と同様のものか?
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▲南(大御堂)側から
※周囲の一般の墓地はプライバシー
保護のためぼかし加工した
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▲墳頂の『美尾屋廣徳碑』
安政7年(1860年)
左の板碑は箱式石棺材の
緑泥片岩のように見える……?
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