【鹿島古墳群】
荒川右岸の河岸段丘上、2kmにもわたる、7世紀代に築造された124基(昭和46年時点)の群集墳。
埼玉県古墳詳細分布調査報告書には95基の記載がある。
東西800mにわたって分布する56基の古墳が埼玉県指定史跡の範囲に含まれ、鹿島古墳公園として整備されている。
【鹿島古墳群の発掘調査】
1970年(昭和45年)、埼玉県営本畠圃場整備事業に伴い、49基の古墳について、第一次発掘調査された。
保存8基、砂利山14基で、実際の発掘調査は27基。
保存8基、発掘調査27基(消滅)の計35基(1号墳〜35号墳)までは下記一覧表を参照)
1971年(昭和46年)、第二次調査では、東方の江南1号〜3号墳が調査されたが、1号、2号は砂利塚で、3号が中世墳墓で、古墳ではないことが判明している。
30基ほど調査されたが、全て円墳で、石室は河原石積みの胴張り型の横穴式石室で統一されていた。
また、玄室と羨道は2対1の比で、30cmの唐尺が使われていた。
それまで、方形に見えるものは耕作などに変形した円墳と推定されていたが、2004年(平成16年)の調査で、73号墳が古墳群初の方墳と確認されてから、他の古墳も方墳の可能性が考えられるようになった。
73号墳に隣接する76号墳も方形を呈しており、辺の向きも73号墳と同様であることから、レーダー調査が行われ、方墳である可能性が確認された。
【壬生吉志一族の墳墓説】
古代男衾郡の中心地であり、『続日本紀』に出てくる武蔵国分寺の七重塔を再建した壬生吉志福正(みぶきしふくしょう)一族の本拠地であった可能性が。
壬生吉志一族とは、朝鮮からの渡来系の氏族で、福岡から大阪へと移り、聖徳太子の四天王寺建立を助けるなど太子の側近として高い地位を得ていた。
6世紀末に横淳屯倉(よこぬのみやけ)、今の吉見町の辺りに移住して、東北に勢力を伸ばしたという。
同じく、聖徳太子の側近として仕え、太子の没後、武蔵国造に任じられた物部連兄麻呂
(もののべのむらじえまろ)の墳墓は行田市の八幡山古墳という説がある。
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