【樋遣川古墳群】
浅間川(阿佐間川)の右岸、かつての樋遣川村に築造された古墳群で、かつては7基の存在が知られており、「樋遣川の七塚」と呼ばれていた。
現存するのは、御室塚(諸塚)、稲荷塚、浅間塚の3基のみとなっており、
崇神天皇の皇子で、東国に赴任し、毛野氏の祖となった豊城入彦命の
子孫、御諸別王(みもろわけのおう)とその子孫の墳墓であるという伝承がある
。
「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」には、加須市の史跡に指定された上記の3基と、出土遺物が市の文化財となっている宮西塚(消滅)の4基の記載がある。
加須市遺跡地図では加須市指定史跡の3基に加え、石子塚の4基の記載がある。
【御陵墓伝説地】
墳頂に御室社(みむろしゃ)が鎮座する御室塚(諸塚・みむろづか・もろづか)には上毛野(群馬県)の国造であった御諸別王(みもろわけのおう)の墳墓という伝承が古くより残る。
実際、明治政府による陵墓探索が盛んに行われた時期に調査され、残存していた3基の古墳、御室塚が御諸別王の墳墓、稲荷塚、浅間塚がその関係地として、「御陵墓伝説地」
(宮内庁管理外)に内定した(現在もそのままのようである)。
しかし、群馬県内にも御諸別王の墳墓と伝承される古墳は複数存在し、
また、年代にもズレがあることから、現在では、御諸別王の陵墓ではなく、この地の有力者の墳墓と
考えられているようだ。
「御室」=「石室」のこと
で、石室が発見されて「御室(みむろ)」という呼び名になり、そこから「みむろ→みもろ」に転じて、御諸別王と結びついたという説もある。
しかし、御諸別王を祀り、「三諸神社」と称していたものを、1300年代に、
「御室」へと改称したという話もあり、「みもろ」が先だった可能性もある。
また、御室塚の西に所在したという「穴咋塚」は御諸別王の父・彦狭島王の墳墓との伝承もある
。
「日本書紀」に彦狭島王は「春日の穴咋邑(村)」に没したとあり、奈良と言われているが、樋遣川村もかつて穴咋村と称していたという。(御諸別王が火やりを使って賊徒を退治したことから樋遣川となったということである)
「穴咋」の名称が先にあり、そこに彦狭島王が結びついたのか、伝承が先にあり、名称がつけられたのか(釜杭という別名もあるので、釜杭から転じた可能性も?)、非常に興味深い。
ちなみに、すぐ北に所在する村君古墳群(羽生市)の御廟塚古墳にも彦狭島王の墳墓という伝承がある。
彦狭島王も御諸別王同様、群馬県内に陵墓と伝えられる古墳が複数存在し、年代など数々の疑問が残る
ため、これらの古墳が真実、両王の墳墓とは考えにくいが、彦狭島王、御諸別王の子孫がこの地にきて葬られたか、
あるいは、塚、社を建て、先祖を祀った可能性も考えられる。
いずれにせよ、樋遣川村は、御諸別王を尊崇し、大事に祀り、語り継い
できた「伝説の地」であることは間違いがない。
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