【知知夫国造の古墳群】
皆野町国神に所在する古墳群
「国神」とは初代の知知夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)に由来すると言われる
知知夫彦命と知知夫姫命の墳墓のほとりにイチョウが植えられたという伝承があり、現在も「国神の大イチョウ(国神塚)」と「国神の姫イチョウ」が所在する
(知知夫彦命と知知夫姫命の陵墓、国神塚に関する各種資料は国神塚を参照
)
【現存は2基のみ?】
国神塚の周囲にはかつて複数の古墳が存在したようである
皆野町の遺跡地図のリストには遺跡番号「30」に上の平古墳群の記載があり、地図上に「30-1」「30-2」の2点がポイントされている
古墳名など詳細は書かれていない
埼玉県古墳詳細分布調査報告書には、
1 上の平古墳(国神塚)
2 稲荷塚古墳の記載がある
「30-1」=上の平古墳=国神塚
「30-2」=稲荷塚古墳とも思えるが
上の平古墳(国神塚)の住所が国神572となっているのに対し、国神の大イチョウ(国神塚)は国神577と相違しており、皆野町の遺跡地図でも、「30-1」と「72国神の大イチョウ」の印は別の場所に打たれている
。
『埼玉懸秩父郡誌』でも、国神塚と上の平古墳は別の古墳として記載されており
上の平古墳=国神塚ではないとも推測できる
。
極めて近距離のため、同一の古墳だったとも考えられるが、ここでは
「30-1」=上の平古墳、
「72国神の大イチョウ」=国神塚
としておく
また、伝知知夫姫命の墳墓(国神の姫イチョウ)は遺跡地図にもなく古墳と確認されていないのか
。
【「国神くにかみ」の意味】 古代の秩父は渡来系の勢力が強く、大和朝廷が関東を支配するようになった6世紀、知知夫彦命が知知夫国を治めるべく初めて派遣されてきたものと思われる
。
国神というのは、ただ単に知知夫彦命を知知夫国の神としたものか、渡来(外国)系に対して、国内の国津神という意味を込められたものなのか。
【秩父以前の表記】
知知夫、知々夫、知知父、知々父と表記は様々である。 |