【古くから開口していた】
この古墳の存在は古くから知られており、様々な文献に記載されている。
『新編武蔵風土記稿』 、『武蔵誌』『秩父日記』、『北武蔵名跡志』
『大日本國誌』、『武蔵國郡村誌』『比企、横見の古蹟調』など。
石室も「地元の人々が切り崩した」「天明 2年(1783年)の大地震により露出した」など諸説あるが、,江戸時代末には開口していたようだ。
また、玄室の入口の左右に立てかけられている巨石は、『新編武蔵風土記稿』(1825年)では描かれていないが、『秩父日記』(1853年)には描かれているため、その間に置かれたと思われる。
この古墳を伝承(下記参照)の通り、陵墓と考え幕末の八幡信仰により、石室内部への立ち入りを制限したものか。
【円墳ではなく、二重の堀を持つ方墳】
かつては円墳と考えられいたが、1988年(昭和63年)の周溝試掘調査により、二重に周堀を持つ方墳であると判明した。
堀は墳丘南側では確認されていない。
さらに、周溝の一部に宅地造成が計画されたため、1989年、1991年に堀を含む区域が追加で史跡に指定された。
【最大級の方墳かつ切り石の石室】
方墳としては埼玉県内で最大級である。
巨石を使った切り石の石室はこの地方にありがちな胴張り(玄室の中央付近の壁が左右に膨らむ)でなく、直線的な構造で珍しい。
周囲に他の古墳はなく、単独のように見えるが、1994年に少し離れた、同じ八幡台に古墳跡(八幡台古墳)が発見され全くの単独ではないと判明した
この他にも、未発見、未確認の古墳が存在するかもしれない
【守邦親王、梅皇子の墳墓説】
鎌倉幕府の9代、最後の将軍である守邦親王(1301〜1333)が幕府滅亡の後、この地に逃れてきて、ここに葬られたという伝承がある
(6代将軍・宗尊親王とも)
または被葬者は「梅皇子」という伝承もあるが、梅皇子とは守邦親王が名乗った別名とか、守邦親王の庶子とか諸説ある
しかし、推定されている古墳の築造年代は7世紀後半であり、守邦親王の時代より、600〜
700年も前のことである
上記の文献でも、被葬者について言及するものもあるが、伝承については、ご否定的な意見が多く、宮内省による1881年の陵墓調査時にも否定されている
現地解説板や小川町のHPでもその伝承について触れられず被葬者は全く不明としている
また、同じく梅皇子が葬られたという伝承がある「梅王子塚古墳」がかつて存在したが、現在は消滅
この古墳から700mほど北東の木下病院(小川町大塚660)に「梅王子館跡」の碑があり、梅王子古墳跡とされている。
|