【長く繋がる古墳群の一支群】鴨川沿いの肥沃な農作地帯に北から植水古墳群、側ヶ谷戸古墳群、大久保古墳群など長く繋がる古墳群の一支群で『さいたま市大宮区三橋4丁目』に所在する古墳の総称である。
近年、繰り返し行われている側ヶ谷戸貝塚の発掘調査により、総数30基に近い古墳が確認されている。
現在、植水古墳群と側ヶ谷戸古墳群は川を挟んだ対岸に見えるが、かつての流路では、一つの古墳群と考えて良いということである。
また、最南端の台耕地稲荷塚古墳に近接する西浦1号墳、円阿弥古墳についても、行政区をまたぎ、旧与野市に所在しているが、立地からして、同一の古墳群を構成していたと考えられる。
現在は墳丘の残っている稲荷塚古墳、茶臼塚古墳、台耕地稲荷塚古墳、上之稲荷古墳と石室が残る山王山古墳の5基が
さいたま市の史跡として一括指定されている。
1957年(昭和32年)に指定された当初は7基で、埼玉県古墳詳細分布調査報告書にも7基が記載されているが、消滅したNo.311古墳、中郷古墳は除外されたようである。
新たな発掘調査により、失われた古墳が次々と確認されており、2014年の側ヶ谷戸貝塚の第10次調査
までに25基ほどが確認されている。
今後も、調査によって確認される古墳跡は増え続けると思われる。
【側ヶ谷戸の読みについて】正しくは「そばがいと」
江戸時代は側海斗村であり、現在、「側ヶ谷戸」の名は
バス停などの名称にその名を残しているだけで、地名は消滅している。
しかし、地元では「そばがやと」と呼ばれていることもあり、以前は
両方、混在して使われていた
古墳前の現地解説板や、書物、「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」でも、「そばがやと」と読みが振られており、以前は当方でも「そばがやと」と表記していた。
しかし、今後、さいたま市では表記を「そばがいと」
に統一すべく、順次、解説板等の修正をしていく予定とのことなので、そばがいとに改めた。
|