古墳の森TOP埼玉県の古墳さいたま市(旧大宮)の古墳さいたま市の古墳地図


             ちゃうすづかこふん / そばがいとこふんぐん
さいたま市指定史跡 茶臼塚古墳 / 側ヶ谷戸古墳群
 

※写真は全てクリックで拡大します※


側ヶ谷戸古墳群

側ヶ谷戸古墳群は、鴨川沿いの肥沃な農作地帯に、北から植水古墳群側ヶ谷戸古墳群大久保古墳群と、長く繋がる古墳群の一支群で『さいたま市大宮区三橋4丁目』に所在する古墳の総称である。
(中央区(旧与野市)円阿弥の古墳も含む)

現在、墳丘、石室跡を残す、5基がさいたま市の史跡に指定されている。

近年、繰り返し行われている側ヶ谷戸貝塚の発掘調査により、総数30基に近い古墳が確認されている。


茶臼塚古墳

茶臼塚古墳は、側ヶ谷戸古墳群中で、古くから知られており、 さいたま市の史跡指定されている5基のうちの一基である。

大き目の円形の墳丘が残存するだが、周囲が削平されたため、高さは現在より低かったと考えられている。

2000年の範囲確認調査でも、墳丘の南側のトレンチで、周溝を確認できなかった。

また、明治時代初めの絵図に前方後円墳の形の土地区画も見られることから、南側に前方部を持つ、前方後円墳の可能性も指摘されている。


▲左:2011年発掘調査の位置
右:2011年調査区の詳細位置
茶臼塚古墳(第1次調査)』より

北側が後円部で、南側の前方部が道路で切り取られ、東側のくびれが僅かに残存しているように見える。

この南西の水田には古墳群の主墳と考えられている井刈古墳の推定地で、右の1947年頃の空中写真を見ても、推定地に僅かにクロップマークのようなものが見える 。

1959年の耕地整理の際には、墳丘がわずかに残っており、埴輪が出土したというので、それが写っているのかもしれない。

ここが井刈古墳とすると、前方後円墳が2基近接していたことになる。
 

六世紀代の横穴式石室?

昭和初期には、石室が見えるほど崩落し、石材が見えていたというが詳細は不明

調査の際、緑泥片岩の破片が多数出土していてることから6世紀代の横穴式石室の可能性がある。



▲南側から

古墳前には古墳の解説板と
歴史散歩コースの案内板
 


▲南側から

1990年に旧大宮市の所有となり、
きれいに保存された墳丘
 


▲やや南東から

右にくびれ部があり、奥の後円部から、手前に前方部が続くように見える
 

▲東側裾部

くびれに合わせて、東側の畑が
耕作されているように見える
 


▲1947年ごろの空中写真
「今昔マップ on the web」より作成

茶臼塚古墳南側の水田の中に、
主軸を南北に向けた古墳跡の
ようなものが見えなくもない。

別の時代の写真を見ても、
推定地付近が周囲の場所とは
土の感じが違って見える。
 


▲現地解説板
大宮市教育委員会(平成8年3月)

フリガナが「そばがやと」となって
いるが、正しくは「そばがいと
(詳細は側ヶ谷戸古墳群へ )

旧側海斗村内の石橋の石材


▲古墳の東側に置かれている石

古墳の石室材ではなく、
江戸時代の石橋の石材を
この地に移設保存してある
 


▲石橋の石材の解説板

江戸時代に側海斗村
(現在の三橋4丁目)内にあった
水路に掛けられていたとのこと
所在地 埼玉県さいたま市大宮区三橋4丁目499〜504
所有者:さいたま市
アクセス
駐車場

さいたま市の古墳地図
史跡指定 さいたま市指定史跡 『側ヶ谷戸古墳群
 1957年(昭和32年)3月6日指定
埼玉県選定重要遺跡 『側ヶ谷戸古墳群
  1969年(昭44年)10月1日指定
別名 さいたま市埋蔵文化財包蔵地 遺跡番号12-305
茶臼塚古墳(B66j)
築造年代 6世紀後半
形状 円墳 径:22.5m 高さ:4.8m
(現地解説板 径:30m 高さ:3m)
埋葬施設 横穴式石室?
出土遺物 円筒埴輪
調査暦 2000年(平成12年) 範囲確認、主体部確認、墳丘測量調査
2011年(平成23年) 個人住宅建設による調査
更新暦

探検日(写真撮影日) 2003年01月19日
第二回探検日(写真撮影日) 2019年01月19日
最新データ更新日 2022年06月20日

文献 さいたま市内遺跡調査会報告 第17集 茶臼塚古墳(第1次調査) 2018
第32回特別展 さいたまの古墳(2009) さいたま市立博物館
埼玉県古墳詳細分布調査報告書
さいたま古墳めぐり古代ロマンの70基(さきたま双書)
埼玉の古墳 北足立・入間
埼玉県の歴史 (県史)



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