【側ヶ谷戸古墳群】
側ヶ谷戸古墳群は、鴨川沿いの肥沃な農作地帯に、北から植水古墳群、側ヶ谷戸古墳群、大久保古墳群と、長く繋がる古墳群の一支群で『さいたま市大宮区三橋4丁目』に所在する古墳の総称である。
(中央区(旧与野市)円阿弥の古墳も含む)
現在、墳丘、石室跡を残す、5基がさいたま市の史跡に指定されている。
近年、繰り返し行われている側ヶ谷戸貝塚の発掘調査により、総数30基に近い古墳が確認されている。
【中郷古墳の由来、来歴】
『埼玉縣史(1951)』に字中郷で埴輪人形、馬形、須恵器等を出した古墳について記述があり、中郷古墳の可能性がある。
また、『大宮市史(1968)』には、測量図が残されており、直径26m、高さ15mの円墳で、出土不明と記載され、また、中郷古墳出土と伝えられる埴輪の頭部の写真も載せられていた。
『台耕地稲荷塚古墳発掘調査報告書(1973)』には以下の記述と写真が掲載されている。
「本古墳の実態はよくつかめていない。二つの円墳状の墳丘が接しており、かつては前方後円墳と考えられたこともあった。南の墳丘はほぼ全壊し、径30m弱の円墳であったと思われ、墳丘の西縁が僅かに残されている。かつて同じつくりの人物埴輪(男子像)が2体発見されたことがある。北の墳丘は小さく、出土品その他はまったく不明で、古墳かどうかも未確認である。」

▲中郷古墳の現状
『台耕地稲荷塚古墳発掘調査報告書』より
地図の位置からすると、この写真は、中郷古墳ではなく、第3次調査時に自然地形と近世の根切り溝と確認されたものかもしれない。
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▲中郷古墳跡 (南側周溝付近)
17号墳の周溝が確認された
以前、周辺を見て、この場所を
中郷古墳跡と勝手に推測し、
上の写真を掲載していたが、
これより少し南の10号墳付近が、
中郷古墳と推定されているという
情報を得て、一時、除外していた
しかし、2014年の調査で、やはり
この付近で間違いないと判明した
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【中郷古墳と17号墳】この中郷古墳は、
旧字の中郷に所在した古墳で、側ヶ谷戸古墳群中で、古くから知られており、1957年(昭和32年)に史跡指定されたうちの一基
だが、現在は墳丘は失われ、指定から除外されている。
左記の通り、『台耕地稲荷塚古墳発掘調査報告書』に位置と写真が掲載されている。
1998年(平成10年)、側ヶ谷戸貝塚の第3次調査時に、中郷古墳跡と推定されていた墳丘
状の高まりの調査が行われた。
しかし、自然地形を近世以降の根切り溝により、墳丘のように見えていたものと判明
、古墳跡発見には至らなかった。
上記報告書の位置は、今回発見された位置よりは南で、字も「中郷」ではなく、「井刈」だったようなので、中塚古墳とされる写真も、その自然地形を撮ったもので、中郷古墳の墳丘はそれ以前に失われていた可能性が高い。
その時には古墳跡(10号墳)が発見されている。
2014年(平成26年)、側ヶ谷戸貝塚の第10次調査
において、10号墳の少し北の道路にかかる位置から、古墳(17号墳)の周溝の南側部分が発見され、大宮市史の記載よりやや小さいが、測量図との整合性が高いことから、中郷古墳で間違いないと見られている。
調査では、周溝より、埴輪の小片が1片しか出土しなかったことから、この部分に埴輪の樹立がなかったか、埴輪を持たないとも考えられ、中郷古墳出土とされていた埴輪類は他の古墳のものである可能性もある。
また、周溝より土師器坏、高坏の出土し、5世紀中ごろ〜後半の古墳の可能性があり、側ヶ谷戸古墳群では初期の古墳となり、古墳群が南側から北へと形成されていったとも考えられる。
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