【わずかな残存古墳のうちの一基】
かつて、この周辺一帯には東原古墳群、原古墳群、向原古墳群、寺山古墳群など、大規模な古墳群が存在しており、古墳も100基を超えると推定されている。
しかし、既に消滅し、現存するのは、この稲荷塚古墳と寺山一号墳、国指定史跡の菅谷館を挟んで、南西600mほどのところにある山王古墳群など20数基となっている。
【稲荷塚】古墳あるあるだが、かつて、この墳丘上に稲荷社が
あったことから、「稲荷塚」と呼ばれている。
江戸天明年間(1781年 - 1789年)の時点で、既に開口していたという。
昭和初期には石室内に人が住んでおり、大分荒れていたらしい。
墳丘の南側には住宅が建っており、墳丘は大きく崩れ、横穴式石室が開口し、羨道は失われていた。
1989年(平成元年)、史跡整備のため、埋没していた玄室前面を発掘し、玄室より胴張りの緩やかな前室が発見
され、破損部分の修理が行われた。
特に崩壊が激しかった前室の東側の側壁の床下から、中世の人骨が出土していることから
中世には盗掘され、副葬品が持ち去られていたと推測される。
▲現地説明板
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