【古墳上に築かれた富士塚】
天王山塚古墳の後円部の上に盛土して作られた富士塚
古墳そのものを盛土、改変などして富士塚として転用することは多いが、大きな墳丘上に、さらに、新たな富士塚を築くのはかなり稀なケースと思われる
文政7年(1824年)または文政12年(1829年)
領主の内藤外記(ないとうげき)に仕えていた萩原久安が、病が治ることを願い、領主の許しを得て、浅間信仰のため、富士山を模し、築造した。
!混同注意!
天王山塚古墳と同じ栢間古墳群のグループに属する富士塚古墳(下栢間字陣屋2886)とは
全く別のものである
あちらが古墳時代の古墳を富士山に見立て、浅間信仰に利用したものであるのに対し、こちらは、古墳上に新たに築かれた江戸時代の塚である
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▲後円部の薬師堂側(西)から
巨大古墳の墳丘上で、
木に覆われているので
目立たないが、かなり大きい
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▲天王山塚古墳 全体図
東側後円部のやや東寄り、
緑のエリアが古墳上の富士塚
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