【富士塚として転用?】江戸時代後期の富士浅間信仰の影響により、墳頂に「浅間神社」が建立され、富士塚として信仰されたらしい
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しかし、さいたま市の西側、かつての大宮市、与野市、浦和市にまたがる鴨川沿いの地域には、植水古墳群、側ヶ谷戸古墳群、大久保古墳群と、南北へと長く続く大古墳群が形成されており、近年の発掘調査でも、その周辺にも次々と多くの古墳が発見されているため、元々は古墳であり、転用された可能性もある
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「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」では古墳として記載されている。
「さいたま市の遺跡地図」では時期不明の経塚となっている。名称「浅間塚」
「さいたま市の塚調査報告」では、「八王子・富士塚」という名称で記載されている。
中世の創建とされる「八王子神社」が南西部の側面に食い込むような形になっている。
古墳だとしたら、八王子神社がある位置が元々の墳頂で、中世、そこに社殿を建てたが、江戸時代になって、富士浅間信仰の流行により、盛り土をして、頂上を高くした可能性もあるのではないだろうか。
【古墳の呼称について】
古墳名は単に「富士塚」であるが、与野公園内の「富士塚」と混同しないように、便宜上、こちらを「八王子 富士塚(古墳)」、与野公園内のものを「与野公園 富士塚」とする
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▲浅間神社の御由緒
「塚」として大きさが書かれている
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