【栃木県内では最大の古墳】藤井古墳群は栃木県南部、黒川東岸の台地上に形成された大古墳群
である。
工業団地等の開発により多くの古墳が消滅したが南北約2km、東西500mほどの範囲に
84基の古墳が確認されている。
吾妻古墳は藤井古墳群の最大の古墳で、中心的存在だったと考えられている。
また、この地方の特有の下野型古墳の特徴を持つ最初の古墳であり、しもつけ古墳群の始まりの一基と言われており、県内では最大の規模である
。
〜しもつけ古墳群とは〜
栃木南部(下野市、栃木市、
小山市、上三川町、壬生町)で
6〜7世紀の間に作られた
この地域に共通する特徴
(下記の下野型古墳の3要素)を
持つ大型古墳・有力首長墓
(6〜7系譜の古墳群)の総称
〜下野型古墳の3要素とは〜
(1)墳丘の第1段目に幅広の
「基壇」を持つこと
(2)前方部に石室を持ち、
後円部には内部主体を設けない
(2)凝灰岩切石を用いた
横穴式石室
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【下野型石棺式石室】
横穴式石室(下野型石棺式石室)で前方部中央に設けられている。
奥壁・側壁は閃緑岩の一枚石、玄門は凝灰岩の切石、玄室前面側壁は川原石小口積み、羨門は凝灰岩から成る。
石室内部は赤彩されていた。
軟質な凝灰岩だけではなく、硬質な緑色岩が加工されており、これは同時期の畿内の石室石材加工を上回るものである。
【抜き取られた玄門石と天井石】
1850年(嘉永3年)の「壬生領史略」に石室内の詳細が記されており、江戸時代には石室が開口していた。
1912年(明治初年)、壬生藩主の鳥居忠宝が発掘し、石室の「蓋石」を壬生町上稲葉の赤見堂に移設して庭石としたという記録があり、この時に玄門と天井石が石室から持ち出されたようである
。
(先人の墓所を破壊し、庭石にするという愚行。それより200年以上も前に、日本初の学術調査を行い、記録と遺物の保存を行った徳川光圀公を見習って欲しい)
1988年(昭和63年)、上稲葉の畑の中に残されていた、吾妻古墳から移設されたと伝わる天井石と玄門石が壬生町に寄贈され、城址公園に移動・展示された
。
【否定されていた天井石】
玄門と天井石と抜き取られた後、石室は埋没していたが1912年に描かれた「下野古墳図誌」に石材が抜き取られた石室の様子が描かれてあり、石室の部材は全て凝灰岩であると考えられていた
。
(天井石解説板参照)
しかし、玄門石は凝灰岩であるものの、天井石は硬質な別の石材であることから、天井石については石室の石材かどうか疑問視されていたようだ。
そのため、2005年訪問時の解説板には玄門石については城址公園にあると書かれている
ものの、天井石のことは触れられていなかった。
(以前の書物も玄門石のみ)
2007年度〜2010年度にかけて吾妻古墳の発掘調査が行われ、現地に残された石室の状況が明らかになった。
玄室の奥壁及び側壁が残されており、玄室の寸法が城址公園の石材と一致し、また奥壁と側壁は天井石同様の硬質石材製だった。
この調査結果から、城址公園の石材は伝承通り、吾妻古墳から持ち出された事が確実となった。
【振り仮名について】
解説板や資料により、「あづま」「あずま」の両方使われているが、文化庁の国指定文化財等データベースには「あずま」となっているので、ここでは「あずま」とする
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