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さいどにごうふん
西戸2号墳 / 西戸古墳群
【No.2 of SAIDO burial mounds】

探検日(写真撮影日)  平成30年04月23日
データ作成日  平成30年05月06日

最新データ更新日  
平成30年05月06日


別名 行任塚(ぎょうにんづか)
平維新(行任)の墓と伝えられていることから
アクセス
駐車場

▲移築後の毛呂山町歴史民俗資料館
 駐車場あり、見学自由
所在地 【移築後】埼玉県入間郡毛呂山町大類
    毛呂山町歴史民俗資料館の庭
【移築前】埼玉県入間郡毛呂山町西戸(旧川角村)
    1号墳の東数十m付近
築造年代 7世紀初頭に築造され、8世紀まで追葬が行われた
形状 大きく破壊されており元の形は不明
埋葬施設 両袖型横穴式石室
全長:2.15m 最大幅:1.53m
出土遺物 1962年(昭和37年)の調査時
金銅製耳環2、ガラス製小玉65、土師器、須恵器
少なくとも13体分の歯
(毛呂山町歴史民俗資料館所蔵)
周辺施設 周溝は発見されず、わずかに葺石あり
発掘調査 1962年(昭和37年)の調査

西戸古墳群中の1基。

明治26(1893)年に長雨で表土が崩れ
石室が現れたため、地元の人々が
発掘した。
土地の所有者が供養にために
その時の様子を記した石碑がある。
(後述する西戸古塚記)

1962年(昭和37年)に本格的な
調査が行われ、石室のみ
現在の地に移築保存された

▲毛呂山町歴史民俗資料館に
移築された石室

▲横穴式石室
天井石と壁の一部は
原型を留めていなかった

▲横穴式石室
南側、少し西向き
四角に加工した切石が
近隣の他の古墳群にはない特徴
 

〜西戸の地名について〜

道祖土(さいど) → 西土 →西戸
となったというもの
行任塚(ぎょうにんづか)というのは
平維新(たいらのいしん・行任)が
道祖土(さいど)の地の祖である
ということから
 


▲古墳前の説明板
毛呂山町歴史民俗資料館による

▲説明板にある
発掘調査時の墳丘測量図
 

▲説明板にある写真
裏込めと報土のようす

▲説明板にある写真
南側上空から
 

▲西戸古塚記
西戸2号墳上に建てられていた石碑
明治26年に表土が崩れ、石室が
現れたため、地元の人々が
発掘した時の様子を土地の所有者が
供養にためにこの石碑を建て残した

〜〜〜 西戸古墳記の説明板の全文 〜〜〜

この石碑は西戸2号墳上に建てられていたもので、
明治26年(1893)にこの古墳を発掘したときの様子を記したものです。
縦書10行、漢文により刻まれ、その概要は次の通りです。

入間郡川角村西戸に行任塚と云う古い塚がある。
今年の秋、長雨に依り表土が崩れて石が出て来たので
下を掘ってみると槨(横穴式石室か)が姿を現した。
槨の内部は分かれて二つになっていて、
その広さはどちらも一丈(畳)ばかりであった。
中からは人骨・刀・鏃・金環が発見され、人骨は数体分あり、
主従関係にあるようで、殉死者がいたようだ。
この古墳は、行任その人の古墳であろうか。
生きた人が一緒に葬られたのであるから
この墓の被葬者は貴人と考えられる。
この土地の所有者は供養のために石碑を建てることを考えられ、
私(この碑文の作者)も同感であるから、
明治癸巳の初冬(明治26年)古塚の由来を書き記したのである。

尚、地元には道祖土(さいど)の祖である平維新(行任)と
云う人物が初めてこの地に入り、行任塚はこの人の墓であり、
近くの丸山城(不明)は平維新が築いた城であると云う伝説があります。
殉死者や平維新伝説と云った内容は史実とは考えられないでしょうが、
これらの碑文や伝説から、明治中頃の人々がどのような思いで古墳を
見つめていたのかが理解され、大変貴重な資料となっています。

▲西戸古墳記の説明板
右に全文

【参考文献】
毛呂山町埋蔵文化財調査報告第4集『松の外遺跡・西戸古墳群』(毛呂山町教育委員会・1987)
毛呂山町埋蔵文化財調査報告第17集 『松の外遺跡・西戸古墳群』〜第2次・第3次発掘調査報告書(毛呂山町教育委員会・1998)
さいたま古墳めぐり―古代ロマンの70基 (さきたま双書)
関東・甲信越 古代遺跡ガイド
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埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾 さきたま出版会
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