【オブ塚古墳】
オブ塚古墳は赤城山西南麓の裾野の緩やかな傾斜地となっている前橋市勝沢町の旧字西曲輪に所在する。
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、芳賀村48号古墳と採番されている。
「大塚」とも呼ばれる前方後円墳であるが、前方後円墳としては小規模で、西側を通る県道に前方部の西側を削り取られている。
前方部の高さは後円部の2分の1しかなく、古い形のようである。
「群馬県古墳総覧〈2017〉」には、
勝沢町に16基の11基の記載があるが、立地的に近接しており、同一グループを構成すると思われるような古墳
は同じ字西曲輪で100mほど北に所在した芳賀村48号古墳(円墳)と70mほど西南のオブ塚西古墳(無墳丘・下記参照)しかない。
現状、単独で存在しているように見えるが、この前方後円墳を取り巻く古墳が他にも複数存在したのではないかと思われる。
【埋葬施設】
自然石の乱石積みの袖無型の横穴式石室で、単室構造であり、幅に比べて、長さが短くなっている。
石室は床面に石を敷き詰めた埋葬部と閉塞部に分かれ、閉塞部の底部は石室外にも延び、石室への踏み台状の構造となっている。
【4体分の人骨と、謎の巨大な骨】
石室内部から、4体分の人骨と刀などの武具や耳環などの装飾品が出土しており、追葬が行われたものと思われる。
謎なのは、人物が埋葬された後に、人骨とは思えない巨大な骨がまとまって石室に入れられていたことである。
盗掘などのためではなく、石室が開けられ、骨が置かれたようであるが、何の骨かもわからず、石室に入れられた意味も不明である。
【オブ塚西古墳(消滅)】
オブ塚古墳の西南70mほどのところに位置した、無墳丘の竪穴式小石槨である。
無墳丘のため、1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では漏れたが、1959年(昭和34年)、畑を水田に変える作業中に発見され、すぐに発掘調査された。
耕作、盗掘などにより攪乱されたのか、遺物は全く発見されなかったが、6世紀中葉前後の築造と推定されている。
長さ1.65mほど小さな石棺式で、遺骸一体分を埋葬するために造られたものと思われる。
それほど時代が離れていない6世紀後半に築造されたと推定されるオブ塚古墳の横穴式石室が追葬するように造られ、4体分の遺骨が発見されたのとは実に対照的である。
このような無墳丘の小石槨であれば、まだまだ地表下に眠っている可能性もある。
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