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つくだかねづかこふん(しきしまむら2ごうこふん) / ぐんまけんしぶかわし(きゅうしきしまむら)
 津久田甲子塚古墳(敷島村2号古墳) / 群馬県渋川市(旧敷島村)
 

※写真は全てクリックで拡大します※


旧敷島村の古墳

1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、 旧敷島村(→旧赤城村→渋川市)でわずか3基の古墳が確認されている(敷島村1号〜3号古墳)。

ただし、前方後円墳として記録されている敷島村3号墳は、2基の古墳(五箇塚、五箇塚2号)であるため、実際は4基であった。

群馬県古墳総覧〈2017〉」には五箇塚3号古墳 、猫寄居古墳を加え、旧敷島村地区に6基の記載がある。(下記一覧表参照)

渋川市域は古墳時代に二度起こった榛名山の大噴火によって甚大な被害を受けた地域であり、津久田甲子塚古墳に代表される噴火による軽石に埋もれた遺跡は多いため、未だに多くの古墳が地中に埋もれている可能性がある。
 

津久田甲子塚古墳

1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、敷島村2号古墳と採番されている。

群馬県古墳総覧〈2017〉」には津久田甲子塚古墳、「マッピングぐんま」では、甲子塚古墳と記載されている。

榛名山の噴火により、軽石の下に埋もれた埋没古墳であり、横穴式石室導入期の初期の古墳として、しばしば名があげられる。

上記の調査時には記録されたが、その後、存在を忘れ去られていたようだ。

2004年(平成16年)になって、 営簡易水道小池原配水池建設事業にの際に、軽石下に埋もれた横穴式石室が 再発見され、地籍図や台帳で確認して、周知の津久田甲子塚古墳であることが判明した。

石室には多石の乱積積みで、奥壁、側壁、天井、床全てに赤色顔料が塗られており、発掘調査後に、地中に埋め戻し保存されている。

軽石の堆積状態から、6世紀初頭の榛名山一回目の大噴火の直後に作られ、6世紀中ごろの二回目までの30年ほどの間に作られたことが判明している。
 

発掘と盗掘歴

埋没古墳として有名な甲子塚古墳だが、墳頂部まで完全に埋没していたわけではないらしく、明治年間には、耕作等により出土する埴輪等で、その存在を知られていたようだ。

昭和10年調査の台帳には、明治30年(1897年)頃発掘とあり、出土品が記載されている。(出土品詳細は右記を参照)

築造直後に軽石下に埋もれたため、未盗掘で発見されたものと思われるが、調査当時、発掘者は既に死亡しており、それらの出土品の所在不明と記されている。

また、大正年間頃には墳頂部から盗掘を受けたようで、閉塞部から埋葬部の前面にかけての天井石とその覆土が取り除かれたようだ。

赤城村教育委員会により発掘調査されたが、多種多彩の埴輪は出土したが、副葬品はなかったようである。
 



▲津久田甲子塚古墳全景
(『発掘調査報告書』より)
 

県下一斉調査時の記載

2004年の発掘調査で、径12.5mの小円墳と判明したが、1935年(昭和10年)の県下一斉調査時の台帳には、「前方後円墳」と記載され、
「全長約46m、前方部高さ約5.5m、後円部高さ約7.6m」と記されている。

山地の斜面に所在する古墳であり、自然の地形が前方後円墳に見えたのかもしれないが、北側に所在する五箇塚のように、2基の古墳を1基の前方後円墳として報告している例もあるので、脇にもう一つの古墳が存在した可能性もなくはない。

2004年調査時には、古墳の西側から北側の1/3程度は削平された状態だったとのことで、もう一つの墳丘に見えたものが削平された可能性もあるか。

あるいは、周辺には数多くの埋没古墳があると考えられているので、まだ地中に埋もれている可能性もある。
 

古墳台帳の図を見ると、西側が後円部、東側が前方部のようであり、津久田甲子塚古墳は「石槨」と書かれている「後円部」の方か。

「石槨」のサイズは
高さ5尺(約1.5m)、縦横6尺(約1.8m)

2004年の調査時には、
石室長4.0m、埋葬部長2.4m、
幅が0.6m〜1.3m
となっているので、サイズ感には若干の違和感がある。

また、「前方部」と思われる部分に向かって斜めに描かれている
「長さ3間(約5.5m)、3尺(約0.9m)の正方の石で作られた横穴」とは何かよく分からない。

貯蔵庫か何かだろうか?

(左下のおまけのスケッチで図解)

 


▲略図と出土品の詳細
1935年(昭和10年)調査時の
スケッチ図 (古墳台帳より)

・刀剣、大1小1
・花サシ(焼物)用ノモノ
・玉(勾玉、管玉)
・ヨロヒ、ヒザアテ、スネアテ
・埴輪
・刀剣を右手に持った人骨
 

被葬者は、右手に刀剣を持った状態で、鎧、膝あて、脛あてなども一緒に出土していることから、武人だったと思われる。

甲子塚の図には、発掘後、骨や刀剣を祭ったという石塔が記されており、祭られたり、埋葬されたものがあったと思われる。

勾玉、管玉は前橋警察署長の手に渡ったこともあるとか。

横穴の前の○地点に「骨、食器類」などとも書かれているが、これは供養のために祭ったか何かか?


 


▲横穴式石室の奥壁
(『発掘調査報告書』より)
 

▲津久田甲子塚古墳復元想定図
(『発掘調査報告書』より)
 

▲gooleマップの古墳位置の写真

上は津久田甲子塚古墳より、100mほど北西にある地点の写真。

以前に、googleマップにプロットしておいた位置が、いつのまにか上の地点に変更されており(写真も投稿されていたので、どなたかが位置修正されたのか?)、マッピングぐんまでもこの付近を示しているので、自分の記憶違いかと上の位置を訪問。

しかし、実際訪問すると、埋め戻したとはいえ、かつて発掘された場所にしては違和感があり、調査報告書で再確認したところ、やはり以前のプロットした位置 の方だと判明。

マッピングぐんまが指すのは地番616付近。611と間違ったか?

2022年9月現在、津久田甲子塚古墳は、gooleマップ、マッピングぐんまの位置(写真の場所)にはない。(googleマップには修正依頼を出す予定)

実際の場所は私有地で、道路からは小高くなっている畑の中なので、行っても多分見られない。
 


▲おまけの落書き

台帳の記述ではイメージがわかず、スケッチしてみたが……
やはり何だかよく分からない
 

旧敷島村の古墳 一覧表

群馬古墳
総覧番号

名称

現状

墳形

埋葬施設 上毛古墳
綜覧番号

 

477 敷島村1号古墳(羽黒塚) 円墳   敷島村1号  
264 津久田甲子塚古墳 円墳 横穴式石室 敷島村2号  
478 敷島村3号古墳(五箇塚) ×     敷島村3号 五箇塚と五箇塚2号合わせて
前方後円墳と記載
265 五箇塚2号墳 × 円墳 竪穴系(石槨)
266 五箇塚3号墳 × 円墳 竪穴系(石槨) なし  
267 猫寄居古墳 × 円墳      
史跡指定   所在地 群馬県渋川市赤城町津久田字小池原611-2
群馬県勢多郡敷島村大字津久田字枇杷久保甲3894-1、3894-2
別名 敷島村2号古墳(上毛古墳綜覧〈1938〉)
渋川市A0010 遺跡 甲子塚古墳
アクセス
駐車場

渋川市の古墳地図
形状 円墳
直径(テラス含む):約12.5m 墳丘部:8.5m
築造年代 6世紀初頭
埋葬施設 袖無型横穴式石室(赤彩)
石室全長:4.0m 埋葬部長:2.40m
奥壁幅:1.3m 入口部幅:0.60m
出土品 墳丘:埴輪(円筒、馬、鳥)、土師器、須恵器
周辺施設 周堀
調査歴 (発掘)平成16.9.14〜平成16.10.18
文献 『津久田甲子塚古墳 :榛名山噴火軽石に埋没した初期横穴式石室古墳』赤城村教育委員会 2005
平成16度村営簡易水道小池原配水池建設事業に係る埋蔵文化財発掘調査概要報告書
更新履歴

探検日(写真撮影日)  2022年09月04日
最新データ更新日  2022年09月20日

【参考文献】
□「上毛古墳綜覧〈1938〉」
群馬県古墳総覧〈2017〉本文・一覧表編/古墳分布図編
□群馬県遺跡台帳II 西毛編 群馬県文化財保護協会
□「古墳めぐりハンドブック」群馬県立博物館

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