【岩屋古墳】
岩屋古墳は茨城県小美玉市(旧玉里村)に所在する古墳。
同じ栗又四ヶ(くりまたしか)には、木船塚古墳群、大塚古墳群、宮後古墳群などが所在する(右の周辺の古墳群分布図参照)が、岩屋古墳はそのいずれにも属さず、現状、単独で所在すると考えられているようである。
ただし、この北西20mほどのところに、箱式石棺(長1.8m、幅0.57m、高0.56m、金環・人骨・刀子・臼玉出土)が埋まっていると言うことであり、この古墳由来のものか、群を形成していた別の古墳のものかは不明である。
墳丘は古くに削平され、横穴式石室も開口していたようで、古い資料には「円墳」とされているが、1996年(平成8年)
に発掘調査され、周溝の形態から、前方後円墳の可能性が指摘されているようである。(玉里村立史料館により報告が出されているが入手できず、詳細不明)
前方後円墳の主軸は不明だが、石室開口部が南東に向いていることや、周囲の古墳群の前方後円墳が皆、前方部を南西に向けていることから、この岩屋古墳も同じく、主軸を南西に向けている可能性も?
(右の分布図や過去の空中写真を参照)
【横穴式石室と箱式石棺】
入口の石(供養碑(?)には、安永7年(1778年)銘の供養文が刻まれているとのことなので、石室の開口は江戸時代以前のことと思われる。
墳丘の削平も、それに伴い、江戸時代以前に行われたのかもしれない。
5kmほど南東の沖洲古墳群の大日塚古墳も同じく雲母片岩の板石を組み合わせた横穴式石室だが、江戸時代にに大日信仰に二次利用されていたようで、この古墳も同様に観世音が祀られていたという。
箱式石棺が主流のこの地域で、大日塚古墳が霞ヶ浦地域で初の横穴式石室を採用したと言われているが、板石を組み合わせる形式は、箱式石棺に近いかもしれない。
【由来・来歴】
「茨城県古墳総覧(1959)」には、
「岩屋古墳 (通) クリマタシカ」 (円墳 径30m 高さ4m位
石室露出)とある。
「玉里村史(1975)」では、
同様に石室が露出している下玉里の岡岩屋古墳との混同を避けるため、「栗又四箇岩屋」としている。(ちなみに岡岩屋古墳の方は水戸光圀公が発掘させたという伝承がある)
「茨城県遺跡地名表(1970)」には、
「円墳」とされている。
「重要遺跡調査報告書. 1(1982)」には
直径30m、高さ4mの円墳(推定)で、墳丘は削平され、南東に開口する石室が露出している」とある。
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