【小針古墳群】
かつて埋め立てられた小針沼(現在の古代蓮の里や浄水場付近)の北辺に築造された古墳群。
No.131古墳、鎧塚古墳、No.157古墳の3基の存在が確認されているが、周囲の水田畦畔に石室材と思われる石材が使用されており、平成5〜6年度に行われた小針遺跡の発掘調査でも、緑泥片岩、角閃石安山岩が大量に発見されていいることから、周囲には多くの古墳があり、開墾などにより、破壊されたと推定されている。
北に所在する八幡山古墳と同様、小針沼の埋め立てのために採土された古墳もあったかもしれない。
【小針鎧塚古墳】
かつて鎧が出土したという伝承があり、地元民から「鎧塚」と呼ばれていた円墳で、通称「小針鎧塚古墳」と呼ばれることが多い。
実際、1985年(昭和60年)の調査時に、挂甲小札(けいこうこざね)が984点も出土し、少なくとも二領の挂甲(鎧)が存在したことが確認されている。
挂甲に用いられていた細身の小札(鎧兜につけられる短冊型の部品)は類例が少ないもので、他には永明寺古墳【埼玉県羽生市】、綿貫観音山古墳【群馬県高崎市】がある。
本墳は「埼玉県古墳詳細分布調査報告書
」には「鎧塚古墳」として記載されているが、「行田市遺跡地図」には記載はない。(北西500mほどにある無名のNo.157古墳(半壊)が記載されているのに、不思議である。)
【横穴式石室に収められた石棺】
1985年(昭和60年)、発掘調査が行われた時点では、既に墳丘に南側が失われていたということだが、角閃石安山岩の横穴式石室と緑泥片岩製の組み合せ式の箱式石棺が出土している。
石室の構造や、出土した多数の副葬品などから、6世紀中葉の築造と推定されている。
発掘後、石室がどのような処置されたかは不明であるが、箱式石棺は佐間にある「埋蔵文化財センター」に運び込まれたらしい。
センターの庭に保存されている大日塚古墳を訪れた時、傍らに箱式石棺の石材らしきものが無造作に積まれているのを見つけた。
大日塚古墳のものは保存の為、埋め戻されているので、
別の古墳出土のものと思い、調べた限りでは、市内で確認されている箱式石棺は大日塚古墳と
、この鎧塚古墳しかなかった。
鎧塚古墳の石室実測図にあった石棺の刻みの入り方を見ても、一致するようなので、鎧塚のものと推定。
後日、関係部署に問い合わせたところ、搬入された経緯は不明だが、おそらく鎧塚のものと思われるという回答であった。
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