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              びしゃもんやまこふん / はにゅうこふんぐん
埼玉県選定重要遺跡 毘沙門山古墳 / 羽生古墳群

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羽生古墳群

東武伊勢崎線と、秩父鉄道の羽生駅の北方に所在する古墳群で、保呂羽山古墳毘沙門山古墳、毘沙門塚古墳(塚畑)の3基が知られている。

毘沙門塚古墳(塚畑)は明治後半〜昭和初期の頃には消滅していたようで、現存は2基であるが、古い資料では、毘沙門山古墳の周辺にいくつかの古墳が存在していたようで、かつては大きな古墳群であったと考えられている。
 

毘沙門山古墳

毘沙門堂の境内に所在する中規模の前方後円墳。

境内の由緒縁起では「毘沙門墳」と表記され、「びしゃもんづか」と振り仮名されている。

毘沙門塚古墳とも言われ、南東100ほどのところにかつて所在した円墳の「毘沙門塚古墳(塚畑つかばたけ)」とは別のものである。

前方部の墳頂には神社の社殿が鎮座している。

1903年(明治36年)、東武鉄道の敷設工事の為、前方部西側の一部が切り取られ、また、後方の一部には周溝が形跡を遺していたが、近年埋没したという。

宗教施設に取り込まれているため、今日まで消されることなく、保存されてきたが、それでも、墳丘は削られ、改変されている。
 

横穴式石室の天井石

主体部および副葬品については伝えられていないが、くびれ部裾にある「釈迦阿弥陀種子板石塔婆」(しゃかあみだしゅじいたいしとうば)、略して「青石塔婆」が横穴式石室の天井石を利用したものと言われている。

この塔婆が、毘沙門堂と同じ、建長8年(1256年)の建立であるということは、少なくとも、この時までに、石室が発見されていたということになる。

あるいは毘沙門堂を建立する際に削られた墳丘から出土したものか。

現在はくびれ部裾にあるが、かつては後円部の裾にあったということで、毘沙門堂の裏から出土したと思われる。
 

日本最大の板碑

高さ235p、幅108pの秩父青石からできた供養塔で、板碑としては日本最大であり、羽生市の文化財に指定されている。

板石塔婆(板碑)は供養塔、墓標などとして建てられるもので、一般的には薄い板材で、細長い形をしており、上が三角になっていたりするが、こちらは横穴式石室の天井石を利用しているため、幅広で、かなり趣を異にしている。
(一般的な例は大日塚古墳【埼玉県行田市】参照)

 



▲南から毘沙門堂

1256年(建長8年)、鎌倉幕府
5代執権・北条時頼の創建だが
幾度か消失し、再建されている

ちなみに、西方180mに所在する
保呂羽山古墳上の保呂羽堂は
それより34年前、北条勢に
滅ぼされた和田義盛など武将の
供養のために建立されたという
 


▲南から前方部

墳頂には「古江宮田合殿社」
(ふるえみやたごうでんしゃ)
浅間神社、秋葉神社なども
合祀されているようだ
 

▲毘沙門堂裏(西側)の前方部

▲毘沙門堂裏(北側)の後円部
 

▲前方部墳頂
 

▲前方から後円部墳頂
 

▲「釈迦阿弥陀種子板石塔婆」(しゃかあみだしゅじいたいしとうば)

「釈迦(種子) 為釈智方禅慶
  建長八年丙辰二月十七日
弥陀(種子) 為西阿弥陀仏」
 

▲毘沙門堂の脇の解説板
『毘沙門道由緒縁起の略記」
 

▲塔婆の脇の解説板
羽生市教育委員会による
 

▲毘沙門山古墳全体図
 
尾崎古墳群 一覧表
名称 指定 現状 墳形 主体部 その他
保呂羽山古墳   円墳(帆立貝型?)   保呂羽塚古墳
毘沙門山古墳   前方後円墳 横穴式石室 毘沙門塚古墳
毘沙門塚古墳   × 円墳    
所在地 埼玉県羽生市西1-1-1他 アクセス
駐車場

駐車場なし 
別名 毘沙門塚古墳、毘沙門墳
史跡指定 埼玉県選定重要遺跡
 1966年(昭和41年)10月1日指定
築造年代 6世紀後半
形状 前方後円墳(二段築成) 全長:64m
前方部幅:約40m 前方部高さ:5m
後円部径:約35m 後円部高さ:5m
埋葬施設 横穴式石室天井石石材
羽生市指定有形文化財(考古資料) 「釈迦阿弥陀種板石塔婆」 1964年(昭和39年)9月9日指定
出土遺物 埴輪
周辺施設 周溝
調査暦   更新履歴

探検日(写真撮影日) 2019年12月15日
最新データ更新日 2020年01月03日

文献 埼玉県古墳詳細分布調査報告書
さいたま古墳めぐり古代ロマンの70基(さきたま双書)
埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾 さきたま出版会
埼玉県の歴史 (県史)



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