【那須国造碑】
「那須国造碑」は栃木県大田原市の笠石神社に祀られている、700年に建立された石碑で、国宝に指定されている。
永昌元年(689年)、那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提(なすのあたいいで)の事績を息子の意志麻呂(いしまろ
・おしまろ)らが顕彰するためのものである。
文字の刻まれた石の上に笠のように石を載せていることから「笠石」とも言われている。
中国の六朝風(北魏)の書体で書かれており、書道史の上からも重要とされ、群馬県吉井町の多胡碑、宮城県多賀城市の多賀城碑とともに「日本三古碑」の一つに数えられており、その中でも最も古い。(
日本の全石碑の中では3番目に古い)
【石碑発見の経緯】
1676年(延宝4年)、奥州岩城出身の僧・円順が、湯津上村を通りかかった時、草むらに打ち捨てられた石碑を見つけた。
里の人が近寄ると怪我をしたり、馬をつなぐと足をくじいたり、血をはいたりするといわれる不思議な石と聞き、高貴な石碑と考え、川向かいの水戸藩領武茂(むも)郷小口村(現那珂川町)の名主・大金重貞(おおがねしげさだ)に伝えた。
大金重貞はその碑文を写し取り、『那須記』に記載し、1683年(天和3年)、徳川光圀公が武茂郷を巡村した際に献上し、光圀公が石碑の存在を知ることになった。
同年、調査のため、光圀公は「水戸黄門」の登場人物「助さん」のモデルと言われる家臣の佐々介三郎宗淳(さっさすけさぶろうむねきよ)を派遣した。
【草壁皇子墳墓説?】
大金重貞は『那須記』で、国造碑が草壁皇子の御陵であるとの説を記載している。
草壁皇子と那須には縁があったのか、那須にそのような伝承があったのか、調べたが見つけられなかった。
推測するに、碑文にある689年は草壁皇子が亡くなった年であり、「飛鳥浄御原宮」は皇子の両親の営んだ宮であるため、そのような説が浮上したのではないだろうか。
しかし、689年は那須直韋提が評督に任命された年であり、亡くなったのは700年なので、光圀公も違うと思ったようである。
【碑主の探索】
当時は、碑が「那須直韋提」のものと分かっていたわけではない。
「直韋提」の部分が「宣事提」と読まれ、官職と解釈されていたようで、光圀公は碑には「碑主の記載がない」と思っていたようである。
光圀公は、碑が国造の墓碑と思い、村人が「国造の墳墓」と伝える侍塚古墳に碑主を求めて、発掘調査を行ったが、上侍塚古墳、下侍塚古墳の両古墳には碑主につながる発見はなかった。(発掘についての詳細は上侍塚古墳、下侍塚古墳のページで)
今では、両古墳は「那須直韋提」より300年ほど古い時代のものと判明している。
しかし、光圀公が碑主解明のための発掘調査、記録としての絵図作成、出土品保護のための原位置への埋め戻し、碑堂建立と周辺地買収、管理人設置
、墳丘保護のための松野の植林……などの一連の事業を行ったこと(他領だが全て水戸藩の費用)は、日本における文化財保護史上、きわめて重要な事績である。
【直韋提の墳墓はどこに?】
両侍塚古墳が那須直韋提の墳墓でなかったとすると、直韋提の墳墓はどこにあるのだろうか。
実は、碑の下は塚だったそうで、両侍塚古墳が発掘される前年の1691年(元禄4年)、碑を保護する碑堂の普請が始まるとともに、塚の発掘調査も行っている。
大金重貞が記した『那須拾遺記』によれば、石碑が倒れていた塚を深さ7尺(約2.1m)ほど掘ったが、墓誌などは見つからなかったそうで、高さ7尺のうち3尺削って平らにし、1間四方の碑堂を建立したという。
現在の笠石神社の碑堂のある場所が、円順が石碑を発見した位置ということになる。
墳丘上に碑を建てたとして、石碑が他所から移動されたものでないとすれば、その塚が那須直韋提の墳墓なのではないだろうか。
墓誌は見つからなかったというが、通常、埋葬施設内に墓誌は入れないし、墳丘の削平や埋葬施設の盗掘などにより、規模が小さくなり、遺物
なども出土しなかった可能性もなくはない。
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