【旧名久田村の古墳】
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、
名久田村で18基の古墳が確認されている(名久田村1号〜18号古墳)。(上毛古墳綜覧〈1938〉)

▲名久田村の古墳分布図
「名久田村 古墳台帳」から抜粋
「群馬県古墳総覧〈2017〉」には平地区の古墳は11基記載されているが、
かつては20基以上あり、平(たいら)古墳群と呼ばれていたということである。
(平は字名)
国道145号(日本ロマンチック街道)沿いの目立つ位置に所在し、中之条町の史跡に指定されている樋塚古墳(名久田村1号古墳)が有名である。(幕末の蘭方医・高橋景作により、発掘された記録が残る)
古墳の発掘調査は以下を除き、ほとんどなされていない。
名久田8号墳は、地主の理解と好意により、保存が決まり、1982年(昭和57年)に発掘調査が行われ、出土品は中之条町歴史民俗資料館に所蔵された。
(「中之条町名久田8号古墳発掘調査のあらまし(1984)」)
これが、平地区の古墳の初の学術的な発掘調査であったようだ。
続いて、1986年(昭和61年)、町道工事の建設予定地(平地区)が、古墳群として知られる場所であったため、遺跡の分布調査が行われ、名久田村9号墳(下平遺跡・下平古墳群)が確認された。
名久田8号墳と名久田村9号墳は上の分布図でも分かるように、極めて近い場所に所在している。
疑問に思っている下記の2点については、右で検証する。
・「群馬県古墳総覧〈2017〉」における
「名久田8号墳」=「綜覧:名久田村14号墳」という記載
・古墳分布図、Googleマップ等における
「名久田8号墳」の位置の不整合性 |

▲北側から
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【小塚古墳】
小塚古墳は、1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、名久田村16号古墳と採番されている。
「上毛古墳綜覧〈1938〉」
固有名称としては「小塚」と記されており、これがこの周辺の集落の名の由来となっているとのことである。
「上毛古墳綜覧〈1938〉」には「発掘セリ(年月不詳)、石槨ヲ存ス」とあるだけで、石室の開口時期、出土遺物等は伝えられていない。
この横尾村出身の幕末の蘭方医高橋景作(たかはしけいさく)が、隣の平村の樋塚古墳(名久田村1号古墳)を発掘し、記録に残したのに、同村の小塚古墳については記録は残さなかったのか。
(横尾村、平村→名久田村)
墳丘には多くの石造物が祀られており、地元民から信仰の対象として、愛されてきたことはうかがい知れる。
現在に至るまで、学術的な発掘調査も行われていないようだ。
名久田川に沿って造られた名久田村の古墳としては、最も南西端に所在する。
【近隣の古墳】
マッピングぐんまによると、すぐ北側の「小塚遺跡」があり、種別が「古墳」となっている。
1994年に発掘調査され、「横尾地区遺跡群U」にて、小塚遺跡の発掘調査報告がなされているが、検出された遺構は、古墳時代の水田址のようである。
「上毛古墳綜覧〈1938〉」によると、小塚古墳から300mほど北側に、「名久田村15号墳」が所在したというが、名久田川の蛇行の曲がり角付近にあり、明治43年の名久田川の増水で崩壊、石室の大半を失ったとある。
そこから、さらに150mほど北の高くなった位置に名久田
村14号墳が所在する。
現在も、畑の中に石室が残存しているようであるが、Googleマップ、他の古墳サイト等でこれを「名久田8号墳」としている。
(その理由の推測については、名久田8号古墳≠名久田村14号古墳で)
北東1kmほどの位置に樋塚古墳(名久田村1号古墳)が所在するが、同じ中之条町指定史跡でありながら、小塚古墳の扱いは少し低い気がする。
様々な遺跡発掘調査報告書に、樋塚古墳の名前と位置は必ず記されるが、この小塚古墳は、横尾地区の小塚遺跡の発掘調査報告書にすら、名前が出てこない。
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