【旧横野村の古墳】
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、
旧横野村(→旧赤城村→渋川市)で33基の古墳が確認されている(横野村1号〜33号古墳)。
「群馬県古墳総覧〈2017〉」には旧横野村地区に新たに確認された古墳など15基を加え、48基の記載がある。
渋川市域は古墳時代に二度起こった榛名山の大噴火によって甚大な被害を受けた地域であり、津久田甲子塚古墳に代表される噴火による軽石に埋もれた遺跡は多いため、未だに多くの古墳が地中に埋もれている可能性がある。
【清水・新井古墳群】
利根川左岸の河岸段丘上にあり、「群馬県古墳総覧〈2017〉」には、赤城町樽の旧小字、清水と新井に4基(横野村27号〜30号古墳)の記載がある。

▲清水・新井古墳群の分布図
「今昔マップon the web」より作成">
川が蛇行した北側には宮田河岸古墳群が、南400mほどには、市の史跡のいなり塚古墳(横野村31号古墳)を主墳とする、3基の小円墳から形成される樽野本
古墳群が所在する。
【弁天塚古墳】
1935年(昭和10年)の群馬県下の古墳の一斉調査では、横野村27号古墳と採番されている。
「上毛古墳綜覧〈1938〉」に記載の固有名称は、辨天塚。
地目地籍に、「畑七畝三歩内石置場九歩」なっている。
畝(せ)=30坪、歩(ぶ)=1坪とすると、213坪の畑の中にあり、その内、石置き場が9坪(約5.5m四方程度)ということか。
大きさは東西・南北4間(約7m)、高さ8尺(約2.4m)となっている。
参考事項に「石田九エ門コノ頂上ニテ盃盛りセシトユウ傳説アリ」とある。
石田九エ門とは有名人なのか?調べてもよく分からなかった。
「群馬県古墳総覧〈2017〉」
には、横野村27号古墳(弁天塚)とある。
「マッピングぐんま」には「清水・新井古墳群、弁天塚古墳」と記載されている。
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▲1935年(昭和10年)調査時の
スケッチ図
「横野村 古墳調査台帳」より
墳頂に巨石があり、その上に
小さな祠のようなものがある。
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【弁天塚古墳の位置の候補】
「上毛古墳綜覧〈1938〉」では、大字樽字清水145であるが、現在、その地番は畑であり、墳丘はない。
下の分布図の27号墳候補地の27A〜27Cの三点の中間くらいである。

▲27号弁天塚 候補地図
ピンクの点線は何もなかった
農地に新たに作られた道路
候補地 (1) 上図 27A
「群馬県古墳総覧」
が指す位置。
145番より北西の29-1番付近。
候補地 (3) 上図 27B
「マッピングぐんま」が指す位置。
地番が154番となっているので、145番の誤記の可能性が強いか。
候補地 (2) 上図 27C
145番の東の181-1番にある塚で、ここを27号弁天塚とされる古墳ファンの方が散見される。
どれも地番が違うが、
かつては一面の農地であり、道もなく、境界線も分かりにくかったので、調査員の勘違いの可能性もあり、また、現在は、新たな道路が作られ、区画整理されているので、かつての地番とは違っている可能性もある。
当方では、候補地 (1)の27A=弁天塚と勝手に推測するが、その根拠は以下の通りである。
27Aは、現在、墳丘はないが、「今昔マップ on the
web」で1975年頃の空中写真を見ると、27Aの位置に不鮮明ではあるが、墳丘と思われるような緑の
影がある。
さらに、現在はその位置に道路と水路が走っているので、道路と水路が設置される際に、封土が取り去られ、石材のみが残ったと思われる。
また、石室材と思われる巨石の上に小祠があり、「上毛古墳綜覧」のスケッチ図と一致する。
元々、墳丘は別の場所(145番)にあり、畑にするために墳丘を壊し、邪魔な石室材の巨石をこの場所に移動した可能性もあるが、
邪魔にならない場所に移動するならともかく、やはり耕作に邪魔になる場所に移動し、スペースを大きく取っているのは意味が分からない。
候補地 (3)の27Cは、墳丘状の塚があり、145番と181-1番は隣り合っているため、区画整理などでかつては145番
だった可能性もある。
しかし、塚の上には五輪塔のような石造物がいくつも存在し、「上毛古墳綜覧」のスケッチ図と一致しない。
五輪塔は由来は不明だが、古いものであるように見え、調査が行われた昭和10年より以前から、その場所にあったのではないかと思える。
墳頂の巨石と小祠を別の場所(27A)に移動し、別に五輪塔を設置した可能性もなくはないが、耕作の邪魔にもならない塚の上から、巨石だけを、農地の邪魔になる場所に労力をかけて移動するのも理解しがたい。
Aの巨石は半分埋もれているので、どこからか運んで、この場所に置いたというより、原位置とするのが自然に思えるので、仮にCが弁天塚だと
すれば、Aにも別の古墳があったのではないかと思われる。
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