【古谷古墳群】
埼玉県川越市の東部、伊佐沼の南東、古谷上(ふるやかみ)に所在する古墳群。
入間川と荒川が合流するところで、多くの氾濫が繰り返された地域で、その中の自然堤防上の微高地に築かれた。
「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」には、古谷神社古墳、熊野神社古墳の2基の古墳の記載がある。
現在、古谷神社古墳の南東100mほどのところにあったという熊野神社古墳は消滅してしまったようである。
なお、『川越の歴史散歩』には、1984年(昭和59年)の古谷・老袋地区の遺跡分布で、4支群17基の古墳が確認されたとあり、そのうち3支群、
・上老袋(舟塚古墳など)
・蔵根(右下の蔵根古墳群の項で)
・伊佐沼東岸(古谷古墳群のことか?)
は埴輪を持つ古墳が多いと記載されている。
(4支群の残りの1つは、南に隣接する南古谷の木野目古墳群のことか?)
【古谷神社古墳】
古谷神社が鎮座する古墳。
『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』では、円墳となっているが、郷土史家の阿部氏によると、全長45mの帆立貝型の前方後円墳
とされている。(『埼玉の古墳
北足立・入間』 )
1351年に、この地域は水害が多かったため、塚の上に群馬県赤城山の沼の霊を祀った赤城神社を勧請したことにより、赤城神社、赤城明神と呼ばれていた。
そのため、古墳は赤城塚、赤城古墳などと呼ばれていたようだ。
1913年(大正2年)〜1915年(大正4年)に、古谷上内の神社を合祀したため、社名を古谷神社に改めた。
『新編武蔵風土記稿』の『赤城社』の項に、「赤城社 この辺土地低く水患あれば、其災を避んと近き比塚をきづき上に社を建つ、この辺の鎮守なり」
とあるため、水塚(みづか、水害の時に避難するための施設)として築かれたものという可能性もあるが、塚上や境内から鉄刀、埴輪などが出土し、また、周辺(熊野神社古墳など)からも古墳出土品が伝えられているところから、古墳であることは間違いなさそうである。
古墳の墳丘を、水塚として二次利用していた可能性もある。
【出土遺物】
東京国立博物館に保存された書類に、
「1914年(大正3年)、古谷村大字古谷上で、『鉄刀一』出土。
1916年(大正5年)、赤城神社の赤城塚と、境内の手洗い池の中から、それぞれ『鉄刀一、埴輪一』出土」とある
1920年(大正9年)、赤城塚から、社殿建築中に『埴輪頭部一』が発見されている。
この埴輪については、同年、東京帝室博物館(東京国立博物館)に寄贈され、その後、イタリアの国立東洋美術館となっているということである。
1914年に出土したという鉄刀は、出土した古墳名が書かれておらず、赤城塚と同じく、鉄刀出土の伝承がある熊野神社古墳のものか?
なお、『川越の歴史散歩』には、
「東京国立博物館所蔵の女子人物埴輪頭部が出土した古谷上赤城神社古墳は削られて平地となっていたが、円筒埴輪の破片を採集したのでその位置を確認した」
と、頭部埴輪出土の赤城神社古墳とは既に削平され、古谷神社古墳とは別のものであるかのように記載されている。
しかし、同時に、別ページには、古谷神社が赤城神社と称していた事が書かれており、古谷神社古墳=赤城神社古墳であるなら、古谷神社古墳は既に削平されていることになるが、また別のページでは、古谷神社古墳は残存しており、帆立貝型の前方後円墳であることが調査で確認された旨が記載されている。
削られて平地となっていたというのは、古谷神社古墳ではなく、近接し、既に消滅していた熊野神社古墳の誤記ではないかと思われる。
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