【梶山古墳群】
梶山古墳群は鉾田市(旧鹿島郡大洋村大字梶山)の、梶山地区に所在する。
「茨城県古墳総覧(1959)」では、梶山1号墳〜25号墳(前方後円墳7基、円墳18基)の記載があるが、所在地、墳型などに疑問があり、現在のものとは違う番号が振られていた可能性がある。
茨城県の「重要遺跡調査報告書3(1986)」には、前方後円墳2基(または3基)、数基の円墳と書かれている。
常陸梶山古墳の現地解説板には、「この古墳の取り囲むように、10m前後の円墳が6基点在していたが、3基を残すのみとなっている」と書かれているが、現状、周囲の古墳は見当たらない。
(東側の墓地にわずかに古墳跡を思わせるような高まりがあったが、詳細な分布図を手に入れていないので、古墳かどうかは不明)
いぱらきデジタルマップでは、南北600mほど細長く範囲指定されており、12基と記載されている。
さらに南西の梶山城付近までを遺跡範囲に含めるようで、1992年(平成4年)の茨城鹿島線の道路改良に伴う梶山城の発掘調査報告書には、調査された古墳1基(梶山城1号墳)が「梶山古墳群」前方後円墳9基、円墳18基の中の1基とされている。
発掘調査等が進むにつれ、数多くの古墳が確認されているようである。

▲梶山古墳群
「重要遺跡調査報告書3(1986)」
↓報告書には以下のように記されている
「1号墳(前方後円墳)は山中にあり、よく形を残している。
2号墳(前方後円墳)は畑の中にあり、周囲を削られ変形している。
2号墳の西(3号墳?)は、円墳とされてきたが、耕作により削られているため、小型の前方後円墳の可能性がある」
「広報ほこた 令和4年2月号」では
、4号墳の西側の古墳(おそらく2号墳)が、5号墳(前方後方墳)として紹介されており、新しく番号が振り直されている可能性がある。
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▲南側から
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【梶山4号墳】
梶山4号墳は径40mに及ぶ円墳で、鹿行(ろっこう・茨城県の南東部)地区では稀にみる大型円墳である。
大正年間には開墾され、大部分が畑地となり、1931年(昭和6年)には村道工事用の盛土のために採土され、現存する墳丘部はもとの五分の一程度ということである。
1979年(昭和54年)10月、甘藷(さつまいも)貯蔵穴掘中に石棺の一部が発見され、翌1980年(昭和55年)1月には発掘調査が実施された。
墳丘裾部の箱式石棺からは5体分人骨と、多彩な副葬品が出土し、特筆すべきが、獅噛環式環頭太刀(がみかんしきかんとうたち)という把頭(つかがしら)で、当時、全国で22例しかなく、県内では唯一の出土であったため、「梶山古墳群4号墳出土遺物」
は一括して鉾田市として文化財指定を受けた。
【変則的古墳(常総的古墳)】
梶山4号墳もの箱式石棺は墳丘裾部に、基底を掘りこんで設けられていた。(左の墳丘実測図参照)
土取りがされる以前に、ここが墳丘の中央部だったわけではなく、追葬により中央部から外れた第二・第三の埋葬施設でもなく、ここが本来の埋葬施設で、意図的にこの場所に設置されたと思われる。
「墳丘中央部から外れた裾部などに埋葬施設が設けられる」という、東関東(常総)で見られる変則的古墳の一例と考えられる。
墳丘の裾部に造られるようになった背景としては、一つの家族墓として、「追葬・改葬」をやりやすくするためとも考えられる。
【箱式石棺の追葬、改葬】
霞ヶ浦沿岸では、横穴式石室ではなく、箱式石棺が主流である。
この常総地域の箱式石棺の特徴しては、石棺でありながら「追葬」や「改葬」がなされているということであり、この梶山4号墳にも、5体もの人骨が葬られていた。
細かい骨が少なく、ある一部の骨()頭蓋骨や長管骨)のみが突出して認められることなどから、追葬とそれ以前の骨の片付け(一次葬の最終埋葬後に人骨を移動・再配置)ではなく、他所の石棺で骨化した骨を持ち出し、再配置した二次葬(改葬)したと考えられている。
また、石棺以外の埋葬場所(土壙・砂浜など)で骨化した後に掘り出され、骨の部位の選別と二次葬がおこなわれた可能性もある。
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