【若小玉古墳群中の一基】
若小玉古墳群は、代々の武蔵国造の墳墓と推定されている埼玉古墳群の築造が終了後、それを引き継ぐ形で、新興勢力により造られ
始め、(資料によっては、埼玉古墳群と同時期に造られ始めたとも)、この地蔵塚古墳の築造を最後に終焉を迎えたと考えられている。
愛宕山古墳、荒神山古墳などの前方後円墳を中心に、多数の小型円墳など100基以上で構成された古墳群であったが、殆どの古墳は開墾、特に富士見工業団地の建設などにより破壊、削平された。
埼玉古墳群に次ぐ大規模古墳群であったが、現存するのは、八幡山古墳と、線刻画が見つかり保存されている地蔵塚古墳の二基のみである。
八幡山古墳は古墳群中、最も南に位置する。
【三室構造の巨大石室】
江戸時代には開口していたことが知られているが、1934年(昭和9年)に近くの小針沼埋め立てのために墳丘を採土され、巨大石室がむき出しになった。
ちなみに、当時、周辺では用土採取のための古墳破壊が進んでおり、同年に南方に位置した前方後円墳の若王子古墳が完全破壊され、翌年には金錯銘(きんさくめい)鉄剣が後円部から出土した国特別史跡の稲荷山古墳の前方部までも破壊されている。
幸い、この八幡山古墳のむき出しになった巨大石室は破壊を免れ、1935年(昭和10年)に発掘調査され、1944年(昭和19年)に、埼玉県の史跡として指定された。
1977年(昭和52年)〜1979年(昭和54年)に、石室の復原整備が行われた。
奈良の石舞台古墳に石室の規模などが匹敵することから「関東の石舞台」と呼ばれる。
石室は奥室、中室、前室に羨道で複雑に構成されている。
奥室が隅丸方形、中室が胴張り型、前室が方形となっており、それぞれ違う形をしている。
▲八幡山古墳石室実測図
【物部連兄麻呂の墳墓説】
この八幡山古墳の被葬者は、墳丘や石室、副葬品の卓越性から、それ以前とは違う系譜の被葬者であると位置づけられており、物部連兄麻呂
(もののべのむらじえまろ)という説がある。
物部連兄麻呂は、聖徳太子の舎人として活躍し、太子の没後、633年、武蔵国造に任じられた人物。
1977年の発掘調査で、終末期の貴人にしか用いられない、出土例の少ない最高級の夾紵棺(きょうちょかん)が出土したことも根拠とされている。(または
物部連兄麻呂が親族を葬ったとも)
また、物部連兄麻呂は東日本への仏教文化の導入に関わったとされ、1935年の調査で石室の奥室から仏教に関連する銅鋺が出土していることも根拠に挙げられている。
物部連兄麻呂は、7世紀中頃までの人で、この古墳の築造年代とも合致しており、可能性は十分に高いと思われる。
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