【安達ヶ原の鬼婆伝説】 |
京都の公卿に奉公する乳母の「岩手」の可愛がる姫が不治の病に侵される。
「妊婦の生き肝を食わせたら治る」という占い師の言葉を信じ、岩手は生まれたばかりの娘を置いて旅に出た。
遠くみちのくまで旅し、いつしか辿り着いた場所が安達ヶ原の「岩屋」であった。
岩手はこの岩屋を宿とし、生贄となる妊婦を待った。
ある日、生駒之助、恋衣(こいぎぬ)と名のる若夫婦が宿を求めてきた。
幼い頃に生き別れた妻の母を探して旅をしているという。
身ごもっていた女が産気づいて、男が産婆を探しに行った隙に、岩手は出刃包丁で女の腹を裂き、姫のための肝を抜き取った。
しかし、息絶えた女が身に着けているお守りが自分が京を発つ際、娘に残したもので、殺した妊婦は、自分の娘だったと知る。
あまりの出来事に、岩手は打ちのめされ発狂する。
以来、旅人を襲っては生血を吸い、人肉を喰らう鬼婆と成り果てる。
数年後、全国行脚の旅をつづける紀州熊野の僧・祐慶が、安達ヶ原へ辿り着き、岩手の住む庵に一夜の宿を求めた。
岩手は客僧をもてなすために、裏山に薪を取りに行くが、その間に決して閨(ねや)を見ないようにという。
ところが僧は「見るな」の禁を破り、閨をのぞき見てしまう。
閨の中は、人の死骸が積み置かれ地獄さながらの有様で、鬼の住家であることに気づいた祐慶はひたすらに逃げる。
約束を破られた老婆は、鬼の姿となって追いかけてくる。
もはやこれまでと観念した祐慶は、荷物の中から如意輪観世音菩薩を取り出し、一心不乱に経を唱えた。
すると観音像が天に昇り、一大光明を放ち、白真弓(白木のマユミで作った弓)で鬼婆を射止めてしまう。
祐慶は鬼婆を阿武隈川のほとりに手厚く葬り、その地は「黒塚」と呼ばれるようになった。
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【大宮の黒塚の異説】 |
鬼女が一人の旅人を泊めて、もてなした。
「押入れを開けてみてはならぬ」といい、鬼女は用足しにでかけたが、旅人は中を見てしまう。
中は累々たる人骨の山で、旅人は気を失ってしまう。
そこで、鬼女の娘が帰ってきて、旅人を介抱し、母親の所業を告げて旅人を逃がした。
黒塚に鬼女が住んでいて、旅人を食らうという話が伝わり、東光坊阿闍梨祐慶が、諸人の難儀を救おうと、この地に来て、庵室を造り、三七二十一の間呪文を修して、折伏を祈ったので、鬼女は石と化した。
その鬼女の化石を埋めたのが黒塚であり、祐慶の庵室を東光坊と言い、後の東光寺であるという。
その後、祐慶は奥州を巡錫し、帰路、再び黒塚を訪れた。
鬼女の娘が母親に殺された多くの人の霊を慰めるため尼になって読経三昧しているのを見て、自分の弟子とし、「大仙尼」と名づけた。
祐慶は1163年に遷化し、東光寺に葬られたといい、また三橋四丁目の慈宝院にも墓があると言われる。
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東光坊 阿闍梨 宥慶 |
平安時代後期に実在した人物であり、熊野那智山の天台宗の寺院・青岸渡寺光明坊の僧侶であった。
大治3年(1128)に東光寺(現在のさいたま市大宮区)を開基、1163年に遷化し、東光寺に葬られたという。
武蔵坊弁慶の師匠だったという説もある。
ちなみに、福島の観世寺の寺伝では、神亀3年(726年)に、東光坊阿闍梨祐慶が鬼婆を退治し、観世寺を開基したことになっている。
観世寺の開基の年が真実、726年とすると、鬼婆の退治も、観世寺の開基も祐慶よりは400年ほど前の話なので、祐慶ではありえない。
鬼婆退治の話はともかく、開基は別の僧によるものと考えられる。
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各種資料に見える黒塚・東光寺 |
【1】 東光寺の寺伝(公式HPより)
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大宮山東光寺は大治3年(1128)頃、紀伊国(現和歌山県)熊野那智山の天台宗の寺院・青岸渡寺光明坊の僧侶・宥慶阿闍梨(ゆうけいあじゃり)が関東へ下った際、足立原に宿泊し、大宮黒塚(氷川神社の東側、現・産業道路脇)において旅人の肉を食う悪鬼が住んでいることを聞き、法力によってその悪鬼を退治し、その側に坊舎(庵)を建立し、東光坊と号して庶民救済のために開いたのが草創です。
したがって、草創当時は天台宗であり、「熊野の光明が東国に輝いた」ということから東光防の名がつけられました。
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【2】 『江戸名所図会』より『黒塚』
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大宮の駅、氷川の社より四町あまり東の方、森の中にあり(この塚より南の方、百歩ばかりを隔てて東光坊の旧跡ありて、二丁四方の間雑樹繁茂せり)。
往古東光坊阿閣梨祐慶、悪鬼退治の地なり。昔は足立原と唱ふ。世俗、奥州の安達が原とするは誤りなるべし(奥州の黒塚は、二本松と八丁目の間、舟引山のこなたにあり)。このところも奥州への海道なれば、混じ交へて、しかいへるならん(足立原の黒塚を、武蔵国とするは、紀州那智山の記にも見えたり)。
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【3】 『江戸名所図会』より『大宮山東光禅寺』
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同所大宮宿宮町の右側にあり。往古は天台宗なりしが、いま宗風を転じて曹洞派の禅林とす(染谷の常泉寺に属す)。本尊は金銅の薬師如来、一寸八分ありて、木仏の薬師の胎中に収む。開山は紀州熊野那智山の東光坊阿聞梨祐慶なり(長寛元年発未〔1163〕正月二十八日遷化。伝へ聞く、「天台宗東光坊阿聞梨宥慶法印、熊野那智山下浜宮住侶、西家三男なり。けだし足立郡は、光明房代々の旦那たるにより、下向せしめらる。このとき大宮黒塚の悪鬼、法力をもつて退散せしむ」云々。寺説に云く、「祐慶は西家の三男にして、那智山下浜宮といへるに住侶たり。長徳年中〔995−99〕西三条の家より継がるるゆゑに、浜宮の西殿と申し伝ふ。いまなはしかり。なかんづく西の家は熊野上綱〔僧綱の上位〕の正嫡なり」と云々)。鳥羽院「1103−56〕の御宇、関東に下向し、法力をもつて一宇をひらきて、熊野の威光を関東に輝かすといへる意によりて、寺を東光寺と号けらる。足立原に古塚あり、黒塚と号く。塚に虚鬼あり、窟を宅とす。殺気天を凌ぎ、猛威人を挟む。慶師〔祐慶〕道力を励ましこれを伏すと。』
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【4】 『諸国俚人談』 黒塚
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黒塚は武蔵国足立郡大宮駅の森の中にあり、又奥州安達郡にもあり。
しかれども東光坊悪鬼退散の地は、武蔵国足立郡を本所と言へり。
即ち東光坊の開基の東光寺を言うあり。
紀州那智の記録にも武蔵国足立郡の悪鬼退散とありて、奥州のことは見えず
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【5】 『新編武蔵風土記稿』 東光寺
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「東光寺 大宮山と号す。曹洞宗新染谷村常泉寺末なり、寺記及鐘銘に拠るに、当時は昔紀伊国熊野那智山光明房の住侶、宥慶阿闍梨関東下向の時、当国足立原に宿りて黒塚の悪鬼を呪伏し、その側に坊舎を立て東光坊と号す。是れ熊野の光明東国に輝く、と云ふ意を表せしとなり。今按に此説いと浮きたる事なり。想ふに此所に黒塚と云う塚ある故に、彼の平兼盛が陸奥の安達原の鬼を詠せし歌に附会せしならん。さて当時は天台宗の由記録に見ゆ、真言宗なりとも云ふ。誰か是なりや、其の後、曹洞宗の僧、梁室和尚中興して一寺とし、東光寺と号す。この僧長享元年(1487)正月28日に化す。本尊薬師客殿に安置せり」
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【6】 『新編武蔵風土記稿』 黒塚
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「小名堀ノ内にあり。高さ一丈許り、径七、八間の塚にて、松樹雑木等生茂れり。塚上に孤松ありて其下に八幡の小社を建つ。また側に石にて造りし大黒の像一軀あり。相伝ふこの黒塚は、昔三沼新田の新開あらざるころ、大宮の神主氷川内記と称せしもの、彼の沼に居る雁鴨等を取んとて、往来人の見とがめんことを恐れて、よなよな鬼面を被りて驚かし、その隙にかの鳥を取りしが、顕れて名儀をも奪はれ、改易となりしとなり。其の後、農人等鬼出しと云ふらし、はては奥州安達郡の黒塚に擬して黒塚と唱へ始めしといへど、こは強言と云べし。夫をいかにというに、村内東光寺の撞鐘元禄九年の銘文に、数百年前熊野那智山宥慶なるもの、曾て檀門を扣て安達郡大宮邑に宿り時、黒塚と云ふ古塚有りて、種々妖怪をなし、人を悩せしかば、慶師法力を以てこれを伏すとのせたり。東光寺は昔真言宗にして、曹洞となりし時の開山梁宝和尚長享元化すといへば、黒塚の名の旧きこと論なかるべし。黒塚と唱ふるには、自らゆへあるべけれど、古き世のことなれば伝へを失せしならん」
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【7】 「大宮文学散歩」
(1976年)
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「〜その突き当たりに大黒様があるが、この辺り一帯が、謡曲や歌舞伎で有名な足立ヶ原の黒塚である。大黒様の東の方、1丁くらいのところに
近年まで一つの塚があり、その上に稲荷社が祀ってあった。これが阿聞梨宥慶に祈伏されて石と化した黒塚の鬼女の塚と言われていたが、何時の間にか削平されて、住宅が建ってしまった。〜」
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【8】 『新編武蔵風土記稿』 土呂村 小名黒塚
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「小名、黒塚。或は九郎塚とも書す。又蔵人頭塚とも唱えり。昔はここに塚ありしよし。そのゆへよしは今よりは知られず」
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