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ぶしゅうあだちがはら くろづか だいこくてん / おにばばでんせつ
武州足立ヶ原 黒塚 大黒天 /
鬼婆伝説・埼玉大宮編

奥州安達ヶ原 黒塚 観世寺 / 鬼婆伝説・福島二本松編

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大宮も鬼婆伝説の地

謡曲や浄瑠璃、歌舞伎などで語りつがれる「安達ヶ原・黒塚」 。
元になる伝説の地としては、福島県二本松市にある観世寺と黒塚が有名だが、埼玉県の大宮(武蔵国足立郡大宮郷)にも
伝承が伝わる東光寺(移転し、現在は黒塚山大黒院)と黒塚がある。
昭和以前においては、東京に近く知名度もあがり、埼玉を本家とする支持が多く、歌舞伎の『黒塚』を演じる際に役者が埼玉を参詣することが多かったという。
 

【安達ヶ原の鬼婆伝説】


 京都の公卿に奉公する乳母の「岩手」の可愛がる姫が不治の病に侵される。
 「妊婦の生き肝を食わせたら治る」という占い師の言葉を信じ、岩手は生まれたばかりの娘を置いて旅に出た。
 遠くみちのくまで旅し、いつしか辿り着いた場所が安達ヶ原の「岩屋」であった。
 岩手はこの岩屋を宿とし、生贄となる妊婦を待った。
 ある日、生駒之助、恋衣(こいぎぬ)と名のる若夫婦が宿を求めてきた。
 幼い頃に生き別れた妻の母を探して旅をしているという。
 身ごもっていた女が産気づいて、男が産婆を探しに行った隙に、岩手は出刃包丁で女の腹を裂き、姫のための肝を抜き取った。
 しかし、息絶えた女が身に着けているお守りが自分が京を発つ際、娘に残したもので、殺した妊婦は、自分の娘だったと知る。
 あまりの出来事に、岩手は打ちのめされ発狂する。
 以来、旅人を襲っては生血を吸い、人肉を喰らう鬼婆と成り果てる。

 数年後、全国行脚の旅をつづける紀州熊野の僧・祐慶が、安達ヶ原へ辿り着き、岩手の住む庵に一夜の宿を求めた。
 岩手は客僧をもてなすために、裏山に薪を取りに行くが、その間に決して閨(ねや)を見ないようにという。
 ところが僧は「見るな」の禁を破り、閨をのぞき見てしまう。
 閨の中は、人の死骸が積み置かれ地獄さながらの有様で、鬼の住家であることに気づいた祐慶はひたすらに逃げる。
 約束を破られた老婆は、鬼の姿となって追いかけてくる。
 もはやこれまでと観念した祐慶は、荷物の中から如意輪観世音菩薩を取り出し、一心不乱に経を唱えた。
 すると観音像が天に昇り、一大光明を放ち、白真弓(白木のマユミで作った弓)で鬼婆を射止めてしまう。
 祐慶は鬼婆を阿武隈川のほとりに手厚く葬り、その地は「黒塚」と呼ばれるようになった。

【大宮の黒塚の異説】


 鬼女が一人の旅人を泊めて、もてなした。
 「押入れを開けてみてはならぬ」といい、鬼女は用足しにでかけたが、旅人は中を見てしまう。
 中は累々たる人骨の山で、旅人は気を失ってしまう。
 そこで、鬼女の娘が帰ってきて、旅人を介抱し、母親の所業を告げて旅人を逃がした。
 黒塚に鬼女が住んでいて、旅人を食らうという話が伝わり、東光坊阿闍梨祐慶が、諸人の難儀を救おうと、この地に来て、庵室を造り、三七二十一の間呪文を修して、折伏を祈ったので、鬼女は石と化した。
 その鬼女の化石を埋めたのが黒塚であり、祐慶の庵室を東光坊と言い、後の東光寺であるという。
 その後、祐慶は奥州を巡錫し、帰路、再び黒塚を訪れた。
 鬼女の娘が母親に殺された多くの人の霊を慰めるため尼になって読経三昧しているのを見て、自分の弟子とし、「大仙尼」と名づけた。
 祐慶は1163年に遷化し、東光寺に葬られたといい、また三橋四丁目の慈宝院にも墓があると言われる。
 

東光坊 阿闍梨 宥慶


平安時代後期に実在した人物であり、熊野那智山の天台宗の寺院・青岸渡寺光明坊の僧侶であった。
大治3年(1128)に東光寺(現在のさいたま市大宮区)を開基、1163年に遷化し、東光寺に葬られたという。
武蔵坊弁慶の師匠だったという説もある。

ちなみに、福島の観世寺の寺伝では、神亀3年(726年)に、東光坊阿闍梨祐慶が鬼婆を退治し、観世寺を開基したことになっている。
観世寺の開基の年が真実、726年とすると、鬼婆の退治も、観世寺の開基も祐慶よりは400年ほど前の話なので、祐慶ではありえない。
鬼婆退治の話はともかく、開基は別の僧によるものと考えられる。

 

各種資料に見える黒塚・東光寺


【1】 東光寺の寺伝(公式HPより)


大宮山東光寺は大治3年(1128)頃、紀伊国(現和歌山県)熊野那智山の天台宗の寺院・青岸渡寺光明坊の僧侶・宥慶阿闍梨(ゆうけいあじゃり)が関東へ下った際、足立原に宿泊し、大宮黒塚(氷川神社の東側、現・産業道路脇)において旅人の肉を食う悪鬼が住んでいることを聞き、法力によってその悪鬼を退治し、その側に坊舎(庵)を建立し、東光坊と号して庶民救済のために開いたのが草創です。
したがって、草創当時は天台宗であり、「熊野の光明が東国に輝いた」ということから東光防の名がつけられました。


【2】 『江戸名所図会』より『黒塚


大宮の駅、氷川の社より四町あまり東の方、森の中にあり(この塚より南の方、百歩ばかりを隔てて東光坊の旧跡ありて、二丁四方の間雑樹繁茂せり)。
往古東光坊阿閣梨祐慶、悪鬼退治の地なり。昔は足立原と唱ふ。世俗、奥州の安達が原とするは誤りなるべし(奥州の黒塚は、二本松と八丁目の間、舟引山のこなたにあり)。このところも奥州への海道なれば、混じ交へて、しかいへるならん(足立原の黒塚を、武蔵国とするは、紀州那智山の記にも見えたり)。
 


【3】 『江戸名所図会』より『大宮山東光禅寺


同所大宮宿宮町の右側にあり。往古は天台宗なりしが、いま宗風を転じて曹洞派の禅林とす(染谷の常泉寺に属す)。本尊は金銅の薬師如来、一寸八分ありて、木仏の薬師の胎中に収む。開山は紀州熊野那智山の東光坊阿聞梨祐慶なり(長寛元年発未〔1163〕正月二十八日遷化。伝へ聞く、「天台宗東光坊阿聞梨宥慶法印、熊野那智山下浜宮住侶、西家三男なり。けだし足立郡は、光明房代々の旦那たるにより、下向せしめらる。このとき大宮黒塚の悪鬼、法力をもつて退散せしむ」云々。寺説に云く、「祐慶は西家の三男にして、那智山下浜宮といへるに住侶たり。長徳年中〔995−99〕西三条の家より継がるるゆゑに、浜宮の西殿と申し伝ふ。いまなはしかり。なかんづく西の家は熊野上綱〔僧綱の上位〕の正嫡なり」と云々)。鳥羽院「1103−56〕の御宇、関東に下向し、法力をもつて一宇をひらきて、熊野の威光を関東に輝かすといへる意によりて、寺を東光寺と号けらる。足立原に古塚あり、黒塚と号く。塚に虚鬼あり、窟を宅とす。殺気天を凌ぎ、猛威人を挟む。慶師〔祐慶〕道力を励ましこれを伏すと。』
 


【4】 『諸国俚人談』 黒塚


黒塚は武蔵国足立郡大宮駅の森の中にあり、又奥州安達郡にもあり。
しかれども東光坊悪鬼退散の地は、武蔵国足立郡を本所と言へり。
即ち東光坊の開基の東光寺を言うあり。
紀州那智の記録にも武蔵国足立郡の悪鬼退散とありて、奥州のことは見えず


【5】 『新編武蔵風土記稿』 東光寺


「東光寺 大宮山と号す。曹洞宗新染谷村常泉寺末なり、寺記鐘銘に拠るに、当時は昔紀伊国熊野那智山光明房の住侶、宥慶阿闍梨関東下向の時、当国足立原に宿りて黒塚の悪鬼を呪伏し、その側に坊舎を立て東光坊と号す。是れ熊野の光明東国に輝く、と云ふ意を表せしとなり。今按に此説いと浮きたる事なり。想ふに此所に黒塚と云う塚ある故に、彼の平兼盛が陸奥の安達原の鬼を詠せし歌に附会せしならん。さて当時は天台宗の由記録に見ゆ、真言宗なりとも云ふ。誰か是なりや、其の後、曹洞宗の僧、梁室和尚中興して一寺とし、東光寺と号す。この僧長享元年(1487)正月28日に化す。本尊薬師客殿に安置せり」
 


【6】 『新編武蔵風土記稿』 黒塚


「小名堀ノ内にあり。高さ一丈許り、径七、八間の塚にて、松樹雑木等生茂れり。塚上に孤松ありて其下に八幡の小社を建つ。また側に石にて造りし大黒の像一軀あり。相伝ふこの黒塚は、昔三沼新田の新開あらざるころ、大宮の神主氷川内記と称せしもの、彼の沼に居る雁鴨等を取んとて、往来人の見とがめんことを恐れて、よなよな鬼面を被りて驚かし、その隙にかの鳥を取りしが、顕れて名儀をも奪はれ、改易となりしとなり。其の後、農人等鬼出しと云ふらし、はては奥州安達郡の黒塚に擬して黒塚と唱へ始めしといへど、こは強言と云べし。夫をいかにというに、村内東光寺の撞鐘元禄九年の銘文に、数百年前熊野那智山宥慶なるもの、曾て檀門を扣て安達郡大宮邑に宿り時、黒塚と云ふ古塚有りて、種々妖怪をなし、人を悩せしかば、慶師法力を以てこれを伏すとのせたり。東光寺は昔真言宗にして、曹洞となりし時の開山梁宝和尚長享元化すといへば、黒塚の名の旧きこと論なかるべし。黒塚と唱ふるには、自らゆへあるべけれど、古き世のことなれば伝へを失せしならん
 


【7】 「大宮文学散歩」 (1976年)


「〜その突き当たりに大黒様があるが、この辺り一帯が、謡曲や歌舞伎で有名な足立ヶ原の黒塚である。大黒様の東の方、1丁くらいのところに 近年まで一つの塚があり、その上に稲荷社が祀ってあった。これが阿聞梨宥慶に祈伏されて石と化した黒塚の鬼女の塚と言われていたが、何時の間にか削平されて、住宅が建ってしまった。〜」
 


【8】 『新編武蔵風土記稿』 土呂村 小名黒塚


「小名、黒塚。或は九郎塚とも書す。又蔵人頭塚とも唱えり。昔はここに塚ありしよし。そのゆへよしは今よりは知られず」
 

福島と埼玉の本家争い

昭和初期 、福島の安達ヶ原と埼玉の足立ヶ原の間でどちらが本家かという争いが勃発した。
しかし、埼玉出身の民俗学者である西角井正慶が埼玉側に対して「埼玉を鬼婆伝説の発祥地とすることは、この地を未開の蛮地と吹聴するようなものだから、むしろ本家を譲った方が得 」と諭し、東光寺側が引いて騒動が収束したとのことだが
福島を「未開の蛮地」とディスっているような微妙な結末。
 


書物に見える賛否両論

右記の【2】『江戸名所図会 』より『黒塚』の項では
奥州の安達が原は誤り」であり、
紀州那智山の記も足立原の黒塚を武蔵国としている」

右記の【4】『諸国俚人談』 より『黒塚』の項では
武蔵国足立郡を本所」とし、
【2】
と同様「紀州那智の記録にも武蔵国足立郡の悪鬼退散と あり、奥州のことは書かれていない」としている

右記の【5】『新編武蔵風土記稿』東光寺 の項によると、
「黒塚という塚に、平兼盛が陸奥の安達原の鬼を詠んだ歌に強引に結びつけた


右記の【6】『新編武蔵風土記稿』 黒塚の項によると、
鬼面を被って鳥を獲っていたという別の伝承を出してきて、「奥州安達郡の黒塚になぞらえて、強がりを言っている

【2】【4】紀州那智山の記録が武蔵国としており、奥州のことは書かれていないことを根拠に『埼玉押し』であるが、【5】【6】の『新編武蔵風土記稿』 の編者は「黒塚」と呼ばれる塚があったために、鬼婆伝説と無理にこじつけていると埼玉に批判的な意見である

いずれにせよ、鬼婆と同様の伝承は日本各地にあり、噂で広まった話が、それぞれ土着の伝承や信仰と結びついて、固有の形に変化して伝えられているようで、どこが本家とか、間違っているとかは言うことができないのではないかと思う
 


現在の東光寺と黒塚は

東光寺は中仙道開通のため、17世紀代に800mほど南西の現在地(宮町)に移転し、その後、「黒塚山大黒院」となった


▲黒塚山大黒院

武州足立ヶ原 黒塚 大黒天 伝説の地 開基大治三年(1128年)」の看板

(大治三年(1128年)は東光寺の開基)



▲現在の東光寺(大宮区宮町)
拝観自由となっており、お茶やお菓子なども自由にいただいて休憩することができるスペースも設けられている大変立派なお寺

右記の【5】『新編武蔵風土記稿』 東光寺の項によると、寺記鐘銘に鬼婆伝説のことが書かれているようなので、お寺の関係者の方に鬼婆伝説について尋ねてみたが、「宥慶阿闍梨開基の寺」ということ以外、何の情報も得られなかった
 


▲東光寺本堂内の鐘
 

大戦中に供出したという撞鐘についても、写しや伝えなどがないか尋ねたが、その鐘の存在も知らないとのこと


本堂内に小さな鐘があったが、これは新しく作られたもののよう
 

消滅してしまった黒塚

現在の大黒院の周辺は全て宅地化されてしまっている。
福島との本家争いにも敗れ、塚は史跡として大切に守られることもなく、消滅して久しいようだ。


▲大宮市史に残る黒塚の写真

塚上の社は

【6】
『新編武蔵風土記稿』の黒塚の項によると、八幡社

【7】
「大宮文学散歩」によると稲荷社となっており、「黒塚稲荷」と呼ばれることもあるようだ

【2】『江戸名所図会』によると、「塚より南100歩あまりのところに東光坊の旧跡がある」とのことなので、大黒院の北側の数十メートルの場所に存在したのか

【7】「大宮文学散歩」によると、「東の方、1丁くらいのところ」で
上記の『江戸名所図会』とは方角が違う。

『新編武蔵風土記稿』の八幡社は、稲荷社に変わり、黒塚稲荷となったのか、あるいは別の塚が存在したのか。

昭和22年(1947年)頃の空中写真によると、大黒院の周辺にはまだこんもりとした木々もあり、塚があってもおかしくない場所があるが、昭和38年(1963年)頃になると、宅地化が進み、一気に緑地が減り、昭和50年(1975年)頃には皆無となるので、1950年〜1960年代に消滅したと思われる 。
【7】「大宮文学散歩」(1976年)の記述とも合致する。


▲黒塚 潮田出羽守城址 同墓碑 (『江戸名所図会』)
 

右上に鳥居や社がある小高い山が描かれており、社は黒塚の写真にある社と良く似ているので、これが黒塚と思われる。

左上が潮田出羽守城址(寿能城跡)と思われる。
 
付近の住宅街の電柱番号の札には「黒塚」の文字が
入っている

黒塚の跡地は分からないが、この地に黒塚が確かにあった名残を感じる
 

古墳としての黒塚の可能性

『新編武蔵風土記稿』によると「高さ一丈許り、径七、八間の塚」となっており、メートルに換算すると、高さが3〜4m、直径が15m前後の塚だが、元々は古墳 だったのではないか

西側の大宮公園ボート池の北側から植竹・土呂の一部にかけて、かつて古墳群が分布していた。
江戸時代、大宮宿の脇本陣の栗原家の古文書によると、20基近くの古墳があったと記されている。
300mほど北にある競輪場付近には「天神山」といわれる前方後円墳も存在していた。
埼玉県立博物館には方形周溝墓も保存されており、高鼻周辺には有力な勢力が存在し、付近に古墳が多く築かれた地でもある。(大宮公園内遺跡参照)

黒塚も、東光寺の寺伝によると、遅くとも東光寺開基の1128年以前には存在していたことになり、その古墳群の属するものだった可能性もある。

故大場磐雄博士が大正15年に撮影したという「黒塚稲荷・二子山」という名の写真が二枚残されているが、二子山=前方後円墳に見える。

また、右記【8】『新編武蔵風土記稿』によると、土呂に も「黒塚」という小字があり、塚があったという。堀之内の黒塚と関係あるのか、別の古墳・塚が存在したのか。
 


黒塚の大黒天

大黒院には大正時代、道路建設のさい、地中より出土したという大黒天が祀られている。
言い伝えによると
『人皇七十代後冷泉天皇の御代永承六年(1051年)、陸奥の土豪安倍頼時が叛乱を起こしたので朝廷が源頼義とその子義家に討伐を命じた。頼義、義家一行は、陸奥への途中この地に露営を張り、明神の加護を祈り大黒天を祀った』という。
長い間に土中に埋もれていたものが、大正時代の道路建設の際に再び出てきたのではないかという。

とすれば、頼義、義家一行がこの地に大黒天を祀ったのは、宥慶阿闍梨の鬼婆退治よりも早い時期のこととなり、大黒天を祀った場所に存在した(新たに築いた?)塚を「大黒塚」と呼び、転じて「黒塚」となった可能性はないだろうか
 

所在地 【大黒院】埼玉県さいたま市大宮区堀の内町3-314
【東光寺】埼玉県さいたま市大宮区宮町3-6(移転後)
アクセス
駐車場

さいたま市の古墳地図
別名 黒塚稲荷
史跡指定  
築造年代  
形状  
埋葬施設  
出土遺物  
調査暦  
文献 大宮市史〈第5巻〉民俗・文化財編 (1969年)
さいたま市文化財調査報告書 第二集
  「さいたま市の塚調査報告」 平成14年
「大宮をあるく 1〜東部編」大宮市教育委員会編集
埼玉県古墳詳細分布調査報告書
さいたま古墳めぐり古代ロマンの70基(さきたま双書)
埼玉の古墳 北足立・入間
埼玉県の歴史 (県史)
 

探検日(写真撮影日) 2019年05月01日
最新データ更新日 2019年04月28日



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